高層建築物としての天守閣の意味について(その3)戦後復興期~現在(城下町の高さ制限)

■戦後復興のシンボルとしての天守閣(昭和築城ブーム)

第二次世界大戦時の米軍による空襲により、多くの天守閣が消失した。

戦後、昭和30年代前半に各地で天守閣の復元が進み、『昭和築城ブーム』と呼ばれることになる(表1)。

これは1956(昭和31)年の経済白書に「もはや戦後ではない」と記された時期と重なり、再建された天守閣は復興を遂げた町のシンボルなった。

ちなみに、天守の復元とはオリジナルに忠実に再建するものを指し、オリジナルと大きく異なるものは「復興天守」、天守がなかった場所につくられたものは「模擬天守」と呼ばれる。

復興天守閣はRC造のものが大部分であることに加え、本来存在しなかった展望台が設置されるケースもあったことから、史実に反するとして批判されることもあった。

しかし、再建された城は、「敗戦後の城下町住民に精神的な拠り所を提供し、かつ観光資源として経済的効果を生み出す」ことが期待され、市民や地元の商工関係者から歓迎されたという。

その後、昭和50年代以降においても、城の再建を目指す市町村が増えていったが、昭和30年代初頭の「昭和築城ブーム」と異なる点があった。

それは、RC造ではなく木造により復元するものが多かったことと、観光振興にとどまらず、景観整備により町の質の向上を目指したことであった。

 

表1 昭和築城ブームにより再建された主な天守閣

昭和築城ブーム一覧

■景観資源としての天守閣(城の景観保全のための高さ制限)

城周辺の景観整備の手法として、近年、天守閣への眺望や周辺の景観を保全するために高さ規制をする例がある。

江戸時代から天守閣が残る12城(弘前城、松本城、犬山城、彦根城、丸岡城、姫路城、松江城、丸亀城、備中松山城、松山城、宇和島城、高知城)のうち、7つの城下町において、高度地区もしくは景観法に基づく景観計画により建物の高さを規制している。

現在、高度地区による規制の例としては、松本市、丸亀市、小田原市、高知市、唐津市、諏訪市(高島城)等があり、景観計画としては、松本市、彦根市、犬山市、姫路市等が見られる(表2)。

また、天守閣は現存しないが、城跡の景観保全を目的とした高さ制限の例としては、佐賀城公園(佐賀市)、鶴岡城址公園(鶴岡市)、金沢城周辺(金沢市)における高度地区の指定がある。

<松本市における高度地区・景観計画による高さ制限>

松本市では、2001(平成13)年に、国宝の松本城とその背景の北アルプス等の山並みへの眺望を保全するために、城周辺の約32.6haを法的拘束力のある高度地区に指定している。

さらに、2008(平成20)年4月からは景観法に基づく景観計画を策定し、ほぼ市全域を対象に高さ制限を行っている。

用途地域にあわせて10m、12m、15m、20m、25m、29.4mの6段階の高さ制限を行っているが、この29.4mは松本城の天守閣の高さであり、市の象徴である松本城を超える建物が建たないように規制しているわけである。

表2 天守閣の景観保全のための高さ制限の事例

天守閣高さ制限一覧

以上、3回に分けて天守閣の意味について見てきたが、高層建築物としての天守閣は、権力の象徴、軍事的機能から、戦災復興の象徴、景観・観光資源へと、その意味・役割を変遷させてきた。

また、従来は天守閣単体の保全・再建が中心であったが、近年の景観規制に見るように、天守閣を含めた一体的な町の景観保全へと考え方が拡大してきている点が特徴といえるだろう。

○高層建築物としての天守閣の意味について(その1)近世における天守閣

https://aosawa.wordpress.com/2010/01/15/

○高層建築物としての天守閣の意味について(その2)徳川幕府瓦解~戦前にかけての天守閣

https://aosawa.wordpress.com/2010/01/18/

[参考文献]

藤尾直史(2006)「天守の復元とその周辺」鈴木博之編『復元思想の社会史』建築資料研究社

木下直之(2007)『わたしの城下町:天守閣からみえる戦後の日本』筑摩書房

藤岡通夫(1988)『城と城下町』中央公論美術出版

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高層建築物としての天守閣の意味について(その2)徳川幕府瓦解~戦前にかけての天守閣

■前近代のシンボルとしての天守閣の破壊

徳川幕府の瓦解とともに、城郭は新政府の軍用地に転用され、天守閣は封建時代の象徴として破壊されていく。

1873(明治6)年1月14日の太政官達により、東京城(江戸城)など43城、1要害の存続が決定したものの、14城、19要害、126陣屋については廃城となり、大蔵省への移管、入札・払い下げが行われた。

その結果、城跡は、軍用地などに転用され、その後、県庁舎や市庁舎等の公共施設用地として利用されるようになる。

1879(明治12)年には、陸軍省・太政官の承認により、国費で名古屋城と姫路城が永久保存されることとなった。

その理由は、同年1月28日付の太政官に対する陸軍省伺によると、「両城が「全国屈指ノモノ」で、「名古屋城ハ規模宏壮」、「姫路城ハ経営精巧」であることから、「永久保存」すれば「本邦往昔築城ノ模範ヲ実見」することができるというものであった。

■文化財としての天守閣の再評価

文明開化の時期を経て、近代国家としての体制が確立していくにつれて、城の歴史的、文化的価値が見直されてくる。

1929(昭和4)年には国宝保存法が制定され、1930(昭和5)年に名古屋城が、1931(昭和6)年に姫路城が国宝に指定された。

また、天守は城下町の人々にとっても誇りであり、「お国自慢の種」でもあったことから、軍事的な機能がなくなった後も、存続もしくは復元され、住民たちの力で整備、保存されるものもあった。

例えば、会津若松の鶴ヶ城は、1874(明治7)年に明治新政府により廃城とされたが、鶴ヶ城は会津人の「精神的な支柱」であるとして、1965(昭和40)年に再建されている(注1)。

また、大坂城の天守は、江戸期に雷火で焼失した後、天守不在の状態が続いていたが、1931(昭和6)年、昭和天皇即位の御大典を記念し、大阪市によって再建された。

RC造による初めての天守閣であり、戦後の昭和築城ブームのさきがけとなる存在であった。

次回は、戦後の築城ブームから現在にかけての天守閣を見ていく。

○高層建築物としての天守閣の意味について(その1)近世における天守閣

https://aosawa.wordpress.com/2010/01/15/

○高層建築物としての天守閣の意味について(その3)戦後復興期~現在(城下町の高さ制限)

https://aosawa.wordpress.com/2010/01/27/

注1) 横山武・会津市長(当時)は鶴ヶ城再建について「蒲生氏郷公の手によって七層の大天守がそびえた鶴ヶ城を、明治七年、時の藩閥政府は、最後まで節義をつらぬいた会津人の抵抗感を挫くために、その精神的支柱であるこの城を無残にも破壊したのであります。その屈辱の日から八十年をへた今日、子孫たちの手によってこの天守閣が再建されれば、郷土の歴史への関心も高まり、青少年の人間形成のための教育の場としても効果的でありましょう。」と記している。

 

[参考文献]

鈴木博之(1999)『日本の近代10 都市へ』中央公論新社

藤尾直史(2006)「天守の復元とその周辺」鈴木博之編『復元思想の社会史』建築資料研究社

木下直之(2007)『わたしの城下町:天守閣からみえる戦後の日本』筑摩書房藤尾

鶴見俊輔編著(2007)『日本の百年1 御一新の嵐 1853―1877』 筑摩書房(ちくま学芸文庫)

高層建築物としての天守閣の意味について(その1)近世における天守閣

日本における代表的な高層建築物に天守閣がある。

もともと軍事的機能を担っていた天守閣であるが、町のあらゆる場所からその姿を望むことができることから、今や地域のランドマークとして人々に親しまれ、重要な観光・景観資源ともなっている。

近年は、天守閣への眺望景観や城の歴史的環境を保全するために、周辺市街地の高さ制限を実施する自治体も少なくない。

そもそも天守閣は、時代を経て、どのようにその役割、意味、機能を変遷させてきたのであろうか?

それを知ることは、今後、天守閣を中心とする景観のあり方を考える上で有益であると思われる。

そこで、高層建築物としての天守閣が担ってきた役割や意味について、3回に分けて見ていきたい。

 

■軍事機能としての天守閣

天守閣の起源は、中世の井楼、高楼等の櫓から発達したと考えられており、室町の末期にまで遡ることができるという。

これに武家邸宅における主殿の要素や軍事的な物見の望楼機能とが加わり、天守閣が誕生したと考えられている。

中世末から近世にかけての戦乱の連続が、城郭建築の急速な発展をもたらすことになる。

天守閣を中心とする近世城郭の様式は、織田信長の安土城によって確立され、豊臣秀吉の伏見城、大坂城において全盛を極め、全国の大名がそれぞれ城郭を建設していった。

これがいわゆる「慶長の築城ブーム」であり、1609(慶長14)年の『鍋島直茂考補』によると、「今年日本国中ノ天主数二十五立」といわれるほどの多数の城が造られた。

高所から城内外の情勢を把握すると同時に、城の内外にある味方からもよく見えるランドマークとなる必要があったために、城の中央部に本丸に設けられた。

また、天守は、軍事的な物見塔としての目的だけでなく、大名の権威や威力を表現する政治的な意図も込められていたとされる。

 

■「築城禁止」による幕府の権力の誇示

大坂夏の陣の後、徳川幕府は天下を統一したが、再び戦乱が起こることを恐れて軍備の制限を行った。

その一つが1615(元和元)年の「一国一城令」である。

原則として領内の統治上から政治的、経済的な意義をもつ居城だけを残すのを許し、一部の例外を除いて築城を禁止し、改築や修理にも制限を加えた。

いわば、高層建築物をつくらせないことによって徳川幕府の権力の存在や威勢を示したといえる。

 

■軍事的必要性の低下による天守閣の衰退

その後、パックス・トクガワーナとも呼ばれる泰平の世が続くと、軍事施設としての天守閣は無用の長物と化し、「天守は一城の飾り」といわれるに至った。

また、時間が経つにつれて修理の必要も生じていったが、諸藩の経済が逼迫していたため、大城郭の修理維持さえも困難となり、城郭建築は衰退していく。

大火により焼失する天守閣もあったが、軍事的な必要性がなくなるにつれて再建されないままのものも少なくなかった。

その代表的な例が江戸城の天守閣(天守台を含めて高さ約60m)である。

1657(明暦3)年、明暦の大火(いわゆる振袖火事)により、江戸城の天守を始め、本丸、二丸、三丸の諸御殿が焼失した。

復興計画が練られたものの、「軍用に益なく、ただ観望に備えるだけの天守再建はこの際無用」との四代将軍家綱の補佐役保科正之(会津藩主)の建言から、天守台のみが整備され、天守閣の再建は行われなかったという。

この時、天守閣が再建されなかった理由には、軍事的要請がなくなったことがまず挙げられる。

またそれ以外の理由として、江戸にとってのランドマークは富士山や筑波山等であり、天守閣等の人工物によるランドマークが必要とされなかったことと関係しているのではないかとの見方もある。

 

■城下町のシンボルとしての天守閣

柳田國男は城について以下のように述べている。

 

「以前の城下町の最も花やかなる目標、人がその地に近づくにつれて、ことになつかしく笠の端に振り仰がれたものは、城の白壁と御天守であった。多くの紀行や広重の版画などをみても、これが松の木の間からちらちらと見える光景は、まずもってその都市の意気を示すものであった。」

「自分は低い小屋に住む者でも、何かというとお城を自慢の種にした。後には防禦の本来の役目よりも、むしろこのほうが重要であったかもしれない。」

このように、徳川幕府時代の天守閣の機能は、本来の軍事的側面よりもお国への忠誠心の醸成や人々の愛着の形成に重きが置かれていたとも思われる。

次回は、徳川幕府瓦解から戦前にかけての天守閣について見てみたい。

○高層建築物としての天守閣の意味について(その2)徳川幕府瓦解~戦前にかけての天守閣

https://aosawa.wordpress.com/2010/01/18/

○高層建築物としての天守閣の意味について(その3)戦後復興期~現在(城下町の高さ制限)

https://aosawa.wordpress.com/2010/01/27/

[参考文献]

太田博太郎(1989)『日本建築史序説 増補第2版』彰国社

藤岡通夫(1988)『城と城下町』中央公論美術出版

内藤昌(1979)『城の日本史』日本放送出版協会(NHKブックス)

前田愛(1992)『都市空間のなかの文学』筑摩書房(ちくま学芸文庫)

柳田國男(1993)『明治大正史世相編 新装版』講談社(講談社学術文庫)

高層建築物に対する拒絶反応と慣れについて ―パリ・エッフェル塔を例に―

高層建築物は、技術の進歩や経済的繁栄の象徴といった肯定的な意味を持つ一方で、高さを巡る紛争に代表されるように否定的に受けとめられる場合もある。

後者の反応からは、現在の町の姿が急激に変化し、時間的な連続性が失われることへの心理的な不安を読み取ることができるだろう。

今やパリのランドマークとして親しまれているエッフェル塔であるが、建設当初は、パリのスカイラインを変化させるエッフェル塔に対して否定的な意見が少なくなかった。

そこで今回は、パリのエッフェル塔に対する人々の反応から、高層建築物に対する拒絶反応と慣れについて考えてみる。

■エッフェル塔建設の背景

高さ300mのエッフェル塔は、鉄骨造かつエレベーターを用いた最初期の高層建造物である。

土木技師であるギュスターヴ・エッフェルによる設計で、フランス革命100周年を記念して開催された1889年のパリ万国博覧会において建設された。

当時、パリ市内の建物で最も高いものは廃兵院の尖塔(105m)であり、その他にはパンテオン(79m)、ノートルダム寺院(66m)等が市内の主要な高層建築物であったことから、300mという高さが桁外れであったことがわかる。

フランスの思想家ロラン・バルトは「塔は見られているときは事物(=対象)だが、人間がのぼってしまえば今度は視線となって、ついさっきまで塔を眺めていたパリを、眼の下に拡がり集められた事物とする」と述べている。

つまり、エッフェル塔は、眺めの対象であるばかりでなく、眺めを提供する高層建造物の先駆けであり、見下ろす眺めを一般の市民が享受できるようにした点にエッフェル塔の時代的な意義があったと言えるだろう。

■エッフェル塔に対する賛否

エッフェル塔は、鉄やエレベーターといった新技術やその高さから近代の象徴、つまり芸術から産業への転換を象徴するとともに、資本主義の象徴とみなされてもいた(ただし、近代が機能の合目的性にその特徴があるとするならば、エッフェル塔は、工場やオフィスビルのような合目的的な建物ではないため、近代の建物ではないとの見解もある)。

それゆえ、エッフェル塔については賛否両論が巻き起こることになる。

①肯定的な反応

エッフェル塔は「科学と技術の応用によって自然に対する技術の優越を象徴するもの」として、多くの人々に歓迎された。

例えば、エッフェル塔を見物したエジソンは、「「偉大な構造物」が実現されたことを神に感謝した」と言われている。

また、パリを占領したヒトラーは「パリの象徴たるエッフェル塔を破壊せよ」と命令したが、結局壊されることなくパリは解放された。

そして、パリに帰還したフランス兵達がエッフェル塔を目の当たりにすると、まるで”感電したような感動に打たれた”との話が残っているという。

②否定的な反応

一方、エッフェル塔に対して嫌悪感を抱く人々も少なからず存在した。

1887年2月、47人の芸術家や文学者等の知識人が建設反対の陳情書をパリ市役所に提出し、エッフェル塔は「その野蛮な大きさによって、ノートル=ダム、サント=シャペル、サン=ジャック塔、など、わが国の建造物すべてを侮辱し、わが国の建築物をすべて矮小化して、踏み砕くに等しい」と厳しく非難したのである。

この陳情書に名を連ねていた作家のギ・ド・モーパッサンは、エッフェル塔の真下のカフェを好んだと言われるが、その理由は、唯一エッフェル塔を見なくて済む場所だからというものであった。

また、イギリスの詩人・デザイナーのウィリアム・モリスは、「パリに立ち寄るときはいつでも、エッフェル塔が見えないように塔のできるだけ近くに宿をとる」と公言したという。

こうした賛否両論が巻き起こること自体、高層建築物が一部の為政者のものではなく、一般大衆のものへと変容してきたことの証左とも解釈できる。

つまり、エッフェル塔は大衆化社会の象徴的存在でもあったといえるだろう。

■「時間的な距離」の必要性

しかし、高層建築物が与える心理的な影響は、時間の経過とともに慣れが生じ、評価に変化をもたらす場合もある。

前述のように、エッフェル塔の建設当初は知識人を中心に拒否反応があったが、いまやパリのランドマークとして欠かせない存在になっており、パリといえばエッフェル塔、エッフェル塔といえばパリというイメージの補完構造を形成するまでになっている。

1972年に建設され、パリの伝統的な景観を壊すとして物議を醸したモンパルナスタワー(高さ210m、59階建)を非難する人はいるかもしれないが、エッフェル塔を壊せという人はおそらくいないのではないだろうか(もしかすると、100年、200年後にはモンパルナスタワーも20世紀のパリを代表するランドマークとして親しまれるようになる可能性も排除できないが)。

ランドマーク全体を視野に収めるためには、ある一定の距離を置き、引いた視点から眺める必要があるのと同じように、高層建築物が人々に親しまれるようになるためには、一定の「時間的な距離」が必要であるとも言えるだろう。

<関連記事>

○パリにおける高さ制限の歴史

https://aosawa.wordpress.com/2010/04/16/

[参考文献]

倉田保雄(1983)『エッフェル塔ものがたり』岩波書店(岩波新書)

松浦寿輝(1995)『エッフェル塔試論』筑摩書房

ロラン・バルト(1979)『エッフェル塔』審美社

エドワード・レルフ(1999)『都市景観の20世紀』筑摩書房

ヴァルター・ベンヤミン(2003)「パサージュ論第1巻』岩波書店(岩波現代文庫)

鹿児島市城山周辺地区における高度地区の拡大 -その2 2010年の高度地区見直しについて-

前回(その1)では、1991年に指定された城山周辺地区での高度地区の経緯を概観したが、今回は、2010年に実施された高度地区区域の拡大の背景とその特徴を見ていきたい。

○鹿児島市城山周辺地区における高度地区の拡大 -その1-

https://aosawa.wordpress.com/2010/01/04/

 

 

■高度地区拡大の背景 

①鹿児島市景観計画(2008年)との整合

高度地区拡大の背景の一つは、2008(平成20)年に策定された鹿児島市景観計画の中で、城山周辺の「歴史と文化の道地区」が、景観形成に重点的に取り組む「景観形成重点地区候補地」に選定されたことである。

もともと城山周辺の国道10号沿道においては、1987(昭和62)年度から1991(平成3)年度にかけて、「歴史と文化の道整備事業」が実施され、石張舗装やイヌマキの植栽、ガス灯設置、花壇整備、親水水路整備や錦鯉の放流など、主に公共施設の整備により歴史的な佇まいを持つ沿道景観の形成が図られてきた(写真1)。

写真1 歴史と文化の道

写真1 歴史と文化の道

一方、道路のハード整備だけではなく、1991(平成3)年には国道10号線の西側では、「城山周辺地区景観風致保全指導要綱」が策定され、高さ20mの制限をはじめとする景観形成基準により沿道の建築物が誘導されることになった(詳細はその1参照)。

うち高さについては都市計画法に基づく高度地区に移行し、法的拘束力を持つ規制となっている。

しかし、「歴史と文化の道」を一体的な通り景観として形成するためには、国道10号線の西側だけではなく、東側も含めて建築物を誘導する必要が生じてきた。

そこで、景観計画の中で歴史と文化の道地区が景観形成重点地区候補地に位置付けられたわけだが、まだ具体的な地区指定の動きがないことから、まずは高度地区のエリアと歴史と文化の道地区のエリアとの整合を図るために高度地区の拡大が行われることになった。

 

②高度地区周辺における高層建築物(裁判所)の建設

高度地区拡大のもう一つの背景には、周辺における高層建築物の増加も挙げられる。

2003(平成15)年、高度地区が指定されていない国道10号線の東側の街区において、鹿児島地方裁判所の庁舎が地上6階、20mを超える建物に建替えられた。

地区の大部分は官公庁施設であるものの、財政難の折、公有財産の有効活用が全国的な潮流としてあるため、官庁施設の高度利用もしくは民間への売却による高層建築物の建設が進む可能性がある。

国道10号線の東側で高層建築物の立地が進むと、「歴史と文化の道」の一体的な通り景観が損なわれてしまうことが懸念され、国道10号線の東側における高さ制限が喫緊の課題になっていた。

 

■高度地区拡大の内容

新たにつくられた景観計画との整合及び高層建築物の増加に対処し、「歴史と文化の道地区」のまとまりのある通り景観を形成することを目的として、城山周辺地区高度地区が拡大されることになった。

新たに拡大する高度地区の区域は、国道10号線の東側の街区約8haであり、従前の区域(約17ha)と併せると計約25haとなる。また、高さ制限値は従来と同様の20mである。

現在、都市計画決定の手続き中であり、3月に告示予定とのことである。

 

■今回の高度地区拡大の特徴 

景観まちづくりの先導的な役割としての高度地区

前述のように、「歴史と文化の道地区」は、あくまで景観形成重点地区の「候補地」である。

市の景観行政の基本スタンスは、住民主体のボトムアップによる計画策定であるため、今後、地元住民と行政が地区指定に向けて協議を行っていくことになる。

しかし、現時点では具体的な地区指定の動きがないため、まずは喫緊の課題であった高さについては高度地区拡大という形で行政が先手を打ち、それを契機に地元の意識を喚起させ、地区指定の機運を盛り上げていきたいという市のねらいもあったようである。

もちろん良好な景観は高さのコントロールだけでは実現できないが、まずできることから積極的に行政が働きかけ(高度地区の拡大)、次の展開(景観形成重点地区の指定)へと繋げていこうとする鹿児島市の姿勢は、他都市においても参考になると思われる。

 

景観まちづくりは地元が主体となって決めていくことが望ましいが、建築紛争といったきっかけがなければ、住民に危機意識が生まれないのも実態である。

したがって、地元の動きを待つだけではなく、必要に応じて地元への働きかけを行うことがこれからの行政には求められると思われる。

 

※なお、鹿児島市景観計画においては、城山展望台から桜島を望む眺望景観と錦江湾から城山を望む眺望景観を保全するために高さ制限が実施されているが、この内容については後日紹介する。

 

<参考文献>

○鹿児島市景観計画

http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/shimin/3machidukuri/3-3toshikeikaku/_28577.html

 

鹿児島市城山周辺地区における高度地区の拡大 -その1 1991年の高度地区指定について―

鹿児島市のランドマークである城山の周辺では、城山の緑地への眺めや旧鶴丸城跡をはじめとする歴史的・文化的環境を保全するために、高さを20mに制限する高度地区が指定されている。

そして、2010(平成22)年には、景観計画に位置づけられた「歴史と文化の道」エリア一帯の景観保全を目的として、高度地区の指定区域が拡大されることになった。

以下では、2回に分けて鹿児島市高度地区について紹介する。

その1では1991(平成3)年に指定された高度地区(以下、1991年高度地区)の指定の経緯を、その2では2010(平成22)年に予定する高度地区拡大(以下、2010年高度地区)の内容や背景を見ていく。

 

 

■城山地区の概要

①城山について

鹿児島市の中心に位置する城山は、都心における貴重な自然を有する標高107mの小高い山であるとともに、西南戦争の最後の激戦地としても知られ、1931(昭和6)年には国の史跡及び天然記念物に指定されている。

城山の展望台からは、鹿児島のシンボルである桜島や錦江湾、鹿児島市街地を一望することができることから、多くの市民や観光客が訪れる場所となっている(写真1)。

貴重な自然的・歴史的な資源である城山は、鹿児島市を代表するランドマークとして市民に親しまれる存在となっている。

城山展望台

写真1 城山展望台から桜島を望む

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

②城山周辺エリアについて

城山の麓の城山周辺地区には、主に官公庁施設や教育・文化施設が立地している(写真2)。

南北に走る国道10号線の西側(城山側)には、旧鶴丸城跡、県立博物館、市立美術館、かごしま近代文学館・メルヘン間、県立図書館といった歴史・文化施設が集積するとともに、閑静な住宅地が存在している。また、国道10号線の東側には裁判所、市役所、小学校等の公共施設が多く立地している。

城山周辺地区

写真2 城山周辺地区(左側の緑が城山)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■1991年の高度地区指定の経緯

①高さ60mのマンションを巡る紛争と景観風致保全指導要綱の策定

1991(平成3)年7月1日、城山と国道10号線に挟まれた地区約17haにおいて、高さ20mの高度地区が指定された。

高さ制限のきっかけは、同年1月に、高さ61.9m、18階建てマンションの建設計画が明らかになったことである。

城山の斜面緑地への眺めが阻害されるとして、地元住民から反対の声が上がったことから、鹿児島市は「城山周辺地区景観風致保全指導要綱」を2月に施行した。

要綱は、建物の高さを20mに制限するとともに、景観形成基準を位置づけたものであった。

高さ制限値20mの根拠は、1)当時、地区内の最も高い建物が20.49m(県立図書館の視聴覚センター)であったこと、2)地区は住居系用途地域であり、旧建築基準法の住居地域における絶対高さ制限が20mであったこと等であった(現在、地区の用途地域は、第2種住居地域で容積率200%及び300%)。

反対運動を受けて、マンション事業者は、高さ14階、50mに計画変更をしたものの、要綱による高さ制限が実施されることになったため、翌3月、開発計画を白紙撤回し、紛争はひとまず収束した。

 

②要綱から高度地区への移行

マンションの白紙撤回という形で問題は解決したものの、現行の規制のままでは、今後も同様の問題が起こる可能性があった。

そこで鹿児島市は、要綱の対象エリアを都市計画法に基づく高度地区に指定する必要があると判断し、4月に住民説明会を開催する。

高度地区原案の内容は、要綱と同じく建物の最高限度を20mに制限するものであった。

その後、都市計画決定の手続きが進み、6月12日に県都市計画地方審議会で原案どおり可決され、同月26日には県知事も承認した。

可決にあたって、県都市計画地方審議会からは「当該地域に権利を有する住民の理解と協力が得られるよう今後とも十分話し合いをすること」との要望が出され、県土木部長から市長宛にも同様の要望が通知された。

こうした要望を受け、同月27日に市は地元住民に対し「お知らせ会」を開催している。

しかし、出席した地権者からは、「市は住民の意向を聴かずに地区指定を進めた」として、高度地区指定に反対する意見が多数出された。

賛否は分かれたものの、市は高度地区の必要性を強調し、1991(平成3)年7月1日に、高さを20mに制限する城山周辺高度地区17haが告示された。

翌1992(平成4)年5月に、市はマンション用地跡地を購入し、跡地にはかごしま近代文学館・メルヘン館を建設している。

このことから、マンション事業者が建設を断念した背景には、規制の強化ばかりでなく、市による用地購入が前提にあったのではないかとも思われる。

 

表 鹿児島市城山周辺地区高度地区指定の経緯

鹿児島市高度地区年表

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■1991年高度地区の特徴

①エリアを限定した高さ制限(スポット的な高度地区の指定)

城山周辺地区(17ha)のみに指定したスポット的な規制である点が特徴である。

現在は、松本城周辺(01年)、丸亀城周辺(02年)、佐賀城公園周辺(02年)、岐阜市金華山周辺(03年)、諏訪湖周辺(05年)、高知城周辺(06年)等、歴史的・自然的景観保全を目的としたスポット指定の高度地区は増えているものの、この時点でのスポット指定は、伊勢市(39年)、函館市(91年)などわずかであった。

 

②法的拘束力のない要綱から強制力を持つ高度地区への移行

行政の対応の早さも1991年高度地区の特徴である。

マンション問題が持ち上がってから、僅か1ヶ月で要綱を作成し、さらに半年弱でより強制力のある高度地区に移行している。

しかし、対応の早さと裏腹に、住民との話し合いが不十分であったため、高度地区の決定時には賛否が分かれた。

高さ制限は、住民が望んだ規制でもあったはずなのだが、その一方で住民は地権者でもあることが、賛否がわかれた理由として挙げられる。

周辺に高層マンションが建つのは反対だが、高さ制限により自らの権利を制限されたくはないという地権者が少なくなかったのである。

住民は良好な住環境を享受する主体であると同時に、土地を活用した経済活動を担う主体でもある。ここに高さ制限の困難さがあるといえるだろう。

マンション問題が、高度地区指定前に、事業者による白紙撤回という形で解決してしまったために、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ではないけれども、高さ制限が「環境を守る手段」ではなく、「権利を奪う規制」としての側面が強く住民に認識されてしまったのかもしれない。

 

住民の合意形成に苦労した例ではあるものの、実効性のある紛争抑止には、要綱ではなく高度地区のような強制力のある高さ制限が必要であると認識し、早期段階から積極的に行動した市の姿勢は評価されるのではないか。

 

次回は、2010(平成22)年に予定されている高度地区拡大の経緯と内容について詳しく紹介する。

○鹿児島市城山周辺地区における高度地区の拡大 -その2 2010年の高度地区見直しについて-

https://aosawa.wordpress.com/2010/01/06/

 

 

[参考文献]

○鹿児島市ホームページ(城山の紹介)

http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/kanko/2shizen/2-1sizen/0005858.html

○南日本新聞(1991年から1992年にかけての関連記事)

○鹿児島市高度地区関連資料