街の記憶の「断絶」と「継承」 ~三菱一号館復元と日本橋の100尺ラインの保全を巡って~

2009(平成21)年4月、丸の内において日本初の洋風オフィスビルである三菱一号館が復元され、2010(平成22)年10月には日本橋において、高さ100尺(31m)の軒高ラインを基調とした日本橋室町東地区の再開発(コレド室町・ユイト)がオープンした。

この2つの計画に共通するキーワードは、「街の記憶の保存・継承」といえるだろう。

しかし、それぞれのプロジェクトを担う三菱地所と三井不動産(注)が、記憶の継承をまちづくりの拠り所として打ち出したのは、そう古いことではない。

むしろここ数十年、過去の記憶は克服すべき課題として認識されていたのである。

記憶の断絶とも呼べる象徴的な出来事が起こった年が、明治維新から100年目の年にあたる1968(昭和43)年であった。

今回は、丸の内における三菱一号館と日本橋における100尺ラインの継承の取り組みから、街における記憶の断絶と継承の意味について考えてみたい。

 

■1968年における記憶の断絶

1968(昭和43)年3月、三菱地所は、旧三菱一号館(当時三菱東9号館)の解体を開始し、 4月には、三井不動産が、従来の絶対高さ制限値31m(100尺)を大きく超える高さ156m(軒高147m)の霞ヶ関ビルを完成させた。

今でこそ、まちづくりにおける記憶の継承は当たり前のことのように思われるが、1968年当時、三菱旧一号館の解体は、陳腐化・老朽化したオフィス街からの脱却・再生を意味した。

また、敷地内に十分なオープンスペースを有する霞が関ビルは、新たな都市像を示す超高層ビルであり、「31m制限」から都市空間を解放する象徴的な存在でもあったのである。

いわば、高度成長期の真っ只中であった1968年当時、記憶の断絶は、むしろ肯定的、進歩的なものとして受容されていたと言えるだろう(三菱一号館の解体に対しては、建築学会をはじめとする反対意見も多かったが)。

 

■記憶の継承の取り組み

その後、約40年を経た今、三菱一号館は三菱地所によって復元され、三井不動産は日本橋において100尺(31m)ラインをまちづくりの拠り所としている。

それぞれの取り組みは、地区に存在する歴史性に着目し、街の価値を高めることを意図したものと言える。

 

①三菱一号館の復元

三菱一号館は、もともと1894(明治27)年に竣工した日本初の洋風オフィスビルであり、その後の丸の内オフィス街形成の出発点となる存在であったが、今から約40年前に老朽化を理由に解体された。

その後、2004(平成16)年に、丸の内二丁目の再開発に併せて三菱一号館の復元が発表され オリジナルの設計図、実測図、保存部材等を用いて、当時と同じく煉瓦組積造により再現されることとなった。

当時のプレスリリースによると、丸の内の「草創期の思想を改めて認識し、再現する建物を「丸の内らしさの源泉」として活用します」とあるように、三菱一号館の復元は、三菱グループや丸の内の原点回帰と言えるだろう。

○丸の内2-1地区再開発(三菱一号館・丸の内パークビルディング)
http://www.mec.co.jp/j/news/pdf/mec090427_2.pdf

②日本橋室町東地区における100尺ラインの継承

一方、日本橋の100尺は、1929(昭和4)年に竣工した国の重要文化財である三井本館の高さ100尺に由来し、さらに言えばもともと市街地建築物法(建築基準法の前身法)の100尺制限に基づくものである(ただし三井本館の軒高は、正確には88尺≒27mで、最高部の高さは100尺)。

これまで中央通りの西側では、三井本館を核として、日本橋三井タワー、日本橋三越本店によって、100尺の低層ラインの街並みが形成されてきた。

日本橋室町東地区の再開発は、こうした歴史的文脈を開発に取り込むことにより、中央通りを挟んで100尺ラインが連続する街路空間の創出を意図したものであった。

    
○日本橋室町東地区再開発と三井本館
(室町東三井ビルディング・コレド室町)
http://www.mitsuifudosan.co.jp/corporate/news/2010/0622/index.html
(日本橋室町野村ビル・ユイト)
http://www.nomura-re-hd.co.jp/news/pdf/100805.pdf
 (三井本館)
http://www.mitsuifudosan.co.jp/project/special/honkan/index.html

■価値観のうつろいやすさ

記憶の「断絶」から「継承」への転換の背景には、「容積率割増」という経済的インセンティブを核とする都市計画手法の確立が必要条件であったものの、街の歴史や文化に価値を見出す意識が、人びとの中に醸成されてきたことも欠かせなかったであろう。

歴史学者のアラン・コルバンは、「風景そのものの一部である評価システムは絶えず変化します。ある時代に美しいとされた風景が、別の時代には醜いとみなされることだってあるのです 」(「風景と人間」藤原書店)と述べている。

街の価値は時代によって変化する脆いものであると同時に、過去においては想像もできないような価値観の変化が起こりうるのである。

つまり、1968年における「記憶の断絶」が、約40年を経て、「記憶の継承」へとシフトしたこと自体は、不思議なことではないのかもしれない。

裏を返せば、100尺ラインや三菱一号館が、数十年後においても、街づくりの拠り所とされる保証は全くないとも言える。

■丸の内・日本橋に見るまちづくりの本質

しかし、丸の内も日本橋も、膨大な時間を費やし、多くの関係主体を交えた議論の積み重ねの結果として現在のまちづくりを進めていることから、そう簡単に方向転換することはないであろう。

むしろ、まちづくりの本質とは、31mライン等のルールを堅持することのみにあるのではなく、こうした地域内での議論と合意のプロセスを担う仕組みにあるとも言えるだろう。

そして、その議論の底流に「街の記憶」が存在し、人びとに共有されることによって、まちづくりに正当性や説得力が生まれてくるのではないだろうか。

街の記憶をないがしろにする安易な現状改変は論外であるが、現状凍結に固執することが街にとって望ましいとも限らない。

丸の内と日本橋における記憶の継承の取り組みは、この2つの極端な状態を回避し、乗り越えるための試みと言えるだろう。

(注)日本橋室町東地区の日本橋室町野村ビル(ユイト)の開発主体は野村不動産だが、日本橋におけるまちづくりの中心的役割は三井不動産が担っている。

(追記)

100尺(31m)ラインの継承は、街の記憶の保存であるばかりでなく、市街地建築物法の100尺(31m)規制という都市計画のルールの記憶の継承でもあるのではないか。

いわば100尺ルールを「都市計画の遺産」として、目に見える形で保存しているとも言えるだろう。

また、100尺(31m)の表情線の保全は、丸の内においても行われているが、これについては別の機会に記したいと思う。

○市街地建築物法の100尺制限の成立経緯については、下記論文を参照。

「市街地建築物法における絶対高さ制限の成立と変遷に関する考察. -用途地域の100尺(31m)規制の設定根拠について-」(土地総合研究2008年冬号)

www.lij.jp/html/jli/jli_2008/2008winter_p051.pdf

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