なぜ皇居濠端の高層ビルは「100m」になったのか?

皇居外苑から丸の内の超高層ビル群を眺めると、高さ100mから200m級のビルに囲まれて窮屈そうに収まっているレンガ色の建物がある。

高さ99.7m(約100m)、25階建ての東京海上ビルだ。

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丸の内のスカイライン(中央のレンガ色のビルが東京海上ビル)

東京海上ビルの完成は1974(昭和49)年。だが、計画自体はその10年ほど前から検討されていた。当初の計画では、建物の高さは100mではなく、128m、30階建てだった。

当時、日本国内に100mを超える高層ビルは存在していない。しかも、場所が皇居の濠端だったため、東京海上ビルの超高層化は、皇居の美観を損ねるとして問題にされた。いわゆる「丸の内美観論争」である。

美観論争を経て、東京海上ビルは高さを減らして100mで完成。その後、大手町、丸の内で濠端に面する敷地では、不文律のように高さ100mのビルが建っていくことになる。

それではなぜ、128mから100mになったのか、また誰が100mに決めたのか。長年分からないまま、もやもやした状態が続いていた(少なくとも私が目にした文献で、これに言及したものはなかった)。

ところが、最近たまたま目にした本に、「100m」に決まった経緯が書かれていたことを発見した。

今里広記「私の財界交友録:経済界半世紀の舞台裏」(サンケイ出版、1980年)の中で、丸の内美観論争についてふれられていたのである。

以下では、まず丸の内美観論争の経過を簡単に説明した上で、高さが100mに決まった理由について述べてみたい。

■丸の内美観論争の経過

1966(昭和41)年、丸の内の濠端に立つ東京海上ビルを超高層ビルに建て替える計画が公になると、マスコミ、学界、建築関連団体のみならず、国会を巻き込んで議論を呼んだ。

肯定的な意見としては、敷地内に広場を持つ超高層ビルは、都市に太陽と緑をもたらす新しい都市のシンボルになり得るといったもの。一方、否定的な見解としては、皇居や丸の内の景観に調和しない、皇居を覗き込むような高層ビルは不敬であるとの意見が示された。当時の佐藤栄作首相は「どうも好ましくない」と反対の立場をとった。

同じく反対の姿勢を示したのは東京都である。

建築確認申請を受けた東京都は、なかなか建築確認を下ろさず、美観地区条例をつくって規制をかけようと試みた。当時、皇居周辺には都市計画法に基づく美観地区が指定されていたが、具体的な規制はかけられていなかった。建築規制を行うには建築基準法に基づく条例を制定する必要があったため、高さ等を規制する条例をつくろうとしたのだ。

また、丸の内地区の大地主である三菱地所も東京海上ビルの超高層化に反対した。当時、「丸ノ内改造計画」(1959年)に基づき、赤煉瓦ビル街を建替えて、軒高31mで揃った大規模ビルの街並みへの更新を進めていたためである。

論争が起きて1年ほど経過した1967(昭和42)年11月、反対していた東京都が建築確認を下ろした。同年4月に都知事に就任した美濃部亮吉が建築確認を下さない合理的な理由がないと判断したことによる。既に美観地区条例案は自然消滅していた。

ただ、東京都が建築確認を下したとしても、超高層ビルの場合は建設大臣の認定がなければ着工することはできなかった。当時は日本の超高層ビルの黎明期。未知の高さを持つ建築物であるため、構造の基準がはっきりと定まっていなかった。そこで、専門家で構成される「高層建築物構造審査会」が一件ずつ安全性を確認した上で、建築基準法第38条に基づき建設大臣が認定をする形が取られていた。

当時の建設大臣は保利茂。1968(昭和43)年11月には坪川信三に替わったが、両大臣とも認定手続を進めず、事態は膠着したまま時間だけが過ぎていった。結局、反対していたのが、「直属の上司」である佐藤栄作だったために決断できなかったのである。

ところが1970(昭和45)年9月に根本龍太郎建設大臣が認定書を受領、12月に工事が着工され、1974(昭和49)年3月に東京海上ビルは完成を迎えた。

東京海上ビル建替えが計画されてから既に約10年が経過していた。そして、当初、高さ128m、30階建てであったものが、100m、25階建てに縮小されたのである。

■佐藤栄作首相への直談判

それではなぜ、128mから100mになったのか、また、誰が100mに決めたのか。

その答えが、冒頭に述べた今里広記の「私の財界交友録:経済界半世紀の舞台裏」に記されているので、それを紹介したい。

ただ、今里広記と聞いても、ピンとこない人が多いかもしれない。

今里は、日本精工の社長を務めた実業家であり、何より日本の財界に幅広い人脈を持っていた。何かしら問題が起こると調整役として担ぎ出されるほど、財界から厚い信頼を受けていた。

超高層ビルに限ってもみても、財界主導で進められた世界貿易センタービルとサンシャイン60の建設には今里が多大な役割を果たしている(これらについては別の機会に記したい)。

丸の内美観論争が起きた際も、その信頼の厚さゆえに東京海上火災から調整を依頼された。今里は、美観論争が収束するまでの流れを知る立場にあったわけである。

 

今里は、まず高層ビルに反対の立場をとっていた佐藤栄作に直談判した。

総理は、「天皇陛下のお住まいをのぞくわけにはいかないからね」と従来の答えがそのまま、はね返ってきた。
「じゃあ、ひと足先にできているホテルニューオータニはどうなんですか。あそこからも、皇居はよく望めますよ」
負けずに、私も反論していった。 (今里広記「私の財界交友録」)

ホテル・ニューオータニは、1964(昭和39)年の東京オリンピックにあわせて、紀尾井町に建設された高さ72m、17階建ての高層ビルだ。当時、ビルとしては日本一の高さを誇っていた。

今里の反論に、佐藤栄作はこう返した。

「オータニは今里君、裏口じゃあないか。丸の内の東京海上とは違うからね・・・・・・・」
何と、ホテルニューオータニは皇居から見て、裏口だからという論法である。私はふきだしたくなったが、そこはじっと我慢して、「総理、お言葉を返すようですが、どっちが正面で裏口かは決まっているものでもないと思いますが・・・・・」とやり返したが佐藤首相は憮然としたままであった。(同)

■「100m」の理由:川島私案

今里は、認定の権限を持つ建設大臣にも直接アプローチし、佐藤栄作の説得を依頼した。

だが、保利茂も、続く坪川信三も佐藤を説き伏せることができなかった。そこで、白羽の矢が立てられたのが、自民党副総裁の川島正次郎だった。党のご意見番である川島は、佐藤栄作が首相になったときに大きな功績があったことでも知られる。佐藤を説得できるのは川島しかいないとの判断が働いたのだろう。

しばらくすると、川島が「私案」を携えて今里のもとを訪れた。この「川島私案」が、東京海上ビルを巡る丸の内美観論争の解決策となる。

それは、32階建を25階建にすれば、佐藤栄作を説得できるというものだった。

佐藤は、「東京海上ビルもホテル・ニューオータニと同じ十七階にするのなら構わない」と周囲にもらしていた。そこで川島は一計を案じた。

「東京海上の三十二階、佐藤首相の十七階―これを足して二で割ると、二十五階になるではないか。これで双方とも円くおさまる」(同)

ただ、ここで注意する必要がある。東京海上ビルの当初案は、32階ではなく、30階である。30階と17階を足して2で割ると、24階となる。実際に建ったビルは25階だ。

しかし、階数ではなく地上高さを見ると、東京海上ビルが128m、ホテル・ニューオータニが72m。足して2で割ると、ちょうど100mとなる。

そして、東京海上サイドは高さ100mに計画を変更して構造確定申請書を東京都に提出。すぐに建設省に回り、認定が下りた。

川島私案によって事はあっさりと進展した。

■不文律となった「100m」

東京海上ビルは1974(昭和49)年3月に竣工。その後、濠端には、示し合わせたかのように100mの超高層ビルが次々と建てられた。

サンワ東京ビル(1973年、高さ99.7m)、大洋漁業ビル(1978年、高さ99.95m)、三井物産本社ビル(1976年、高さ100m)など、100mは不文律として機能していった。

その後、大手町・丸の内・有楽町地区では、自主的な街のルールである「ゆるやかなガイドライン」が1998(平成10)年2月に策定され、その中にスカイラインの考え方が示された。

基本的に皇居を中心にすり鉢状のスカイラインを描くというもので、濠に面した部分は約100m程度、皇居から離れるほど高くなり、150mから200mまで可能とされた。この内容は、2000(平成12)年8月に策定された「大手町・丸の内・有楽町地区まちづくりガイドライン」に継承され、現在に至る(ガイドラインはその後改訂され、最新版は2014年に公表)。

皇居濠端の高さ100m基準は、いまや地域のルールとして共有されている。

だが、その数値に明確な根拠はない。景観工学や都市計画的な観点から決められたわけではなく、「足して2で割る」という政治的な決着で生まれたのである。

もちろん根拠が明確でなければ意味がないというわけではない。根拠が不明確でも、長い時間をかけて規範として共有されることもあるからだ。

しかし、この件に限らないが、現在使われている基準を金科玉条のように扱うことにはやや違和感がある。今ある基準をアンタッチャブルな前提とするのではなく、規制値が定められた経緯や理由を知った上で、その意味や必要性を吟味することが求められるのではないか。法制度や規制の歴史を研究する意義もそこにあると考えている。

 

<参考文献>

今里広記(1980)『私の財界交友録:経済界半世紀の舞台裏』サンケイ出版

大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり懇談会(2014)『大手町・丸の内・有楽町地区まちづくりガイドライン2014』

 

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「自由の女神像」が意味するもの

アメリカでは、たとえ不法移民であっても、親に連れられて移住した場合には強制退去させられることはない。オバマ前大統領の時代に設けられた救済措置だ。不法移住の責任は親が負うべきで、その子供に罪はないとの理屈に基づくものである。

ところが、2017年9月5日、アメリカのジェフ・セッションズ司法長官が、この救済措置を撤廃する方針を示した。オバマ政権からトランプ政権に代わり、移民への風当たりが強くなりつつあるが、撤廃方針はその一つといえよう。

ここで思い起こすのは、自由の女神像である。

自由の女神像は、アメリカの国家理念である自由やデモクラシーのシンボルであると同時に、アメリカへやってくる移民にとっても大きな意味を持つモニュメントである。

以下では、自由の女神がつくられた経緯を踏まえながら、その意味、象徴性について考えてみたい。

■摩天楼の先駆的存在

自由の女神像の高さは、女神が右手で掲げるトーチ(松明)までが46m、台座を含めると92mに及ぶ。

なお、マンハッタン島でトリニティ教会の高さを超えた初めてのビルは、1890年に完成したピュリッツァー・ビル(ニューヨーク・ワールド・ビル)で、高さは94m。自由の女神像とほぼ同じである。

つまり、べドロー島(現リバティ島)には、ピュリッツァー・ビルの4年前に、トリニティ教会の高さを上回る建造物があったわけだ。

もちろん実用的なビルである摩天楼とは異なり、あくまでもモニュメントではあるものの、自由の女神像はその後のマンハッタンにおける超高層化の先駆的存在だったといえよう。

■独立を記念するシンボル

ここで、自由の女神像が建立された経緯を確認しておきたい。

自由の女神は、摩天楼誕生の直前の1886年にニューヨークで建設された(なお、首都ワシントンD.C. に立つオベリスク状のモニュメント、ワシントン記念塔はその翌年に完成)。

自由の女神の正式名称は「アメリカ独立の記念像:世界を照らす自由」だ。つまり、アメリカ独立100周年を記念して建立されたモニュメントであることがわかる。アメリカ独立戦争を支援したフランスとの友好を示す証として、フランスからアメリカに贈られた。

フランスが像の制作とアメリカへの輸送を担当し、アメリカが台座の設計・建設を行うという米仏の共同プロジェクトであった。像は彫刻家フレデリック=オーギュスト・バルトルディが設計し、鉄骨の骨組みはエッフェル塔にその名が残るギュスターヴ・エッフェルが担当した(なお、エッフェル塔の完成は自由の女神完成の3年後の1889年)。

■マス・メディアの時代

だが、建設当時は必ずしも好意的に受け入れられていたわけではなかった(このあたりはエッフェル塔と類似する構図である。別稿「高層建築物に対する拒絶反応と慣れ」参照)。

一般市民は、自由の女神の建設を一部の富裕層が勝手に進めていることと冷ややかに見ていたという。それゆえ台座の建設費用もなかなか集まらず、独立宣言100周年の1876年には間に合わなかった。

建設費用は、ジョセフ・ピュリッツァーが立ち上げたワールド新聞社が公共精神と愛国心に訴えかける一大キャンペーンを展開し、寄付を募ることでまかなわれた。自由の女神像がアメリカの理念を具現化したものとして認識されるようになったのは、メディアの力も少なくなかったのである。

前述のように、ピュリッツァー・ビルはトリニティ教会の高さを超える最初のオフィスビルであった。自由の女神とともに、新聞王ジョセフ・ピュリッツァーが関与していたことは偶然だったのだろうか。

自由の女神と摩天楼は、マス・メディアが台頭していく時代をも象徴していたのである。

■移民を迎える寛容のシンボル

1886年に自由の女神像が完成すると、新たな意味を持つようになる。それは世界各地からアメリカへやってくる移民達によって付与されていった。

自由の女神像が立つリバティ島は、大西洋からマンハッタンへ向うニューヨーク港の玄関口に位置する。つまり、自由の女神は、アメリカにやってくる人々が最初に目にするランドマークであった。

フランシス・F・コッポラ監督の「ゴッドファーザーpartⅡ」では、イタリア・シチリア生まれの主人公が、移民船の上から自由の女神を見上げるシーンが描かれている。映画の冒頭にこのシーンを見せることで、自由の国・アメリカに希望を見出す主人公の心情を表現しているわけである。

つまり、自由の女神像は、祖国を離れて新たにアメリカへやってくる移民を慈悲深く迎えてくれる寛容のシンボルとなった。

自由の女神像の台座には、自らもロシアからの移民であったエンマ・ラザルスの詩が刻まれている。

  家なく嵐に打たれた者たちへ自由の女神は
  黄金のドアのかたわらでランプを掲げる

  エバの亡命した子どもたち、われわれはみなあなたを求める
  あなたの慈悲深いまなざしがわれわれの上に降り注ぐ・・・・
(若桑みどり『イメージの歴史』から引用)

自由の女神像が掲げるトーチは、移民者を自由の国アメリカに迎え入れる灯台のような役割を担ったともいえるだろう。このようにして、自由の女神像は、「移民者の母」として認識されるに至る。

■自由の女神像を巡る問題

2017年の4月から8月にかけて、自由の女神像のあるリバティ島の周辺に大型船舶が長期停泊して問題となった。ロシアやドイツの富豪が所有する大型クルーザー3隻が、自由の女神像への眺めを損なうというのである(共同通信2017年9月2日)。景観問題に加えて、移民のシンボルである女神像が金持ちによって独占されることへの忌避感もあったといわれる。

だが、先に述べたように、自由の女神像の建設は、もともと富裕層が中心になって進められたプロジェクトで、移民にとっての象徴性はその後に生じたものだった。富豪の船舶によって自由の女神が見えにくくなったことは、当初の自由の女神を巡る議論、つまり、富裕層への批判が形を変えて繰り返されているともいえる。

そして、冒頭で触れたように、親とともにアメリカに不法移住した子供を強制退去させない救済措置が撤廃される見通しとなった。この問題と、自由の女神像周辺での船舶停留問題は、直接の関連はないとはいえ、時代の空気を反映しているような気がする。

 

アメリカという国の根幹が自由と平等であり、そのシンボルが自由の女神像といえる。自由の女神像に込められてきた意味を考えることを通じて、改めて自由や平等とは何か、寛容とは何かを問われているのではないか。

 

<参考文献>

小田基(1990)『「自由の女神」物語』晶文社

若桑みどり(2012)『イメージの歴史』筑摩書房(ちくま学芸文庫)