2 高層建築物の歴史

超高層ビルの誕生とその歴史的意義(3)

超高層ビルの誕生とその歴史的意義(2)の続き

■超高層ビルの歴史的意義

以上を踏まえて、超高層ビルの歴史的意義について考えてみたいと思います

一つは、やはり、土地の高度利用・効率的な利用を実現したことです。

これは高層化、つまり「空を拓く」ことで可能となったわけです。

アメリカでは19世紀に西部開拓が進みましたが1890年の国勢調査でフロンティアの消滅が宣言されます。

同年には、ニューヨークのマンハッタンに高さ90mのニューヨーク・ワールド・ビルが完成し、宗教的シンボルでありマンハッタンで一番高かったトリニティ教会の高さを初めて抜き、本格的に摩天楼によって空を拓かれていくことになります。

アメリカが、平面的な開拓から垂直的な開拓へと転換した象徴的な年が1890年だったわけです。

日本にとっての転換点となる年は、やはり霞が関ビルが完成した1968年と言えるでしょう。超高層ビルによる垂直都市の実現が、土地の高度利用を可能としたのです。

その後、超高層ビルの普及が進み、近年は超高層住宅の建設が活発です。都心の地価が高い場所で住宅を供給するには、超高層化は効果的な手法です。

2000年以降に東京都内で建設されたタワーマンションは60m以上の高層ビルの60%を占めるようになりました。タワーマンションは、居住の都心回帰の受け皿となったのです。

とはいえ、タワーマンションは様々な問題もはらんでいます。

景観や日照を阻害したり、圧迫感やビル風をもたらしたりすることなどが指摘されています。また、超高層マンションが増えた結果、小学校不足が起こり、また通勤時の駅の混雑も起きています。

これは、本来、インフラとのバランスを考えずにタワーマンションの建設を認めた都市計画の問題ではありますが、間接的に超高層ビルの問題点でもあります。

丸の内や日本橋の超高層ビル開発では、高さ31m(昔の100尺)を超える部分を道路から離してつくることで、ヒューマンスケールな街並みを実現し、ビル風や圧迫感の軽減を図っています。

 

二つの目の意義ですが、建物を上に伸ばすことによって都市に不足していた広場(オープンスペース)が創出され、都市に潤いをもたらしたことです。

過去40年間に、総合設計制度という規制緩和制度を用いた超高層ビル開発によって、東京には200ヘクタールのオープンスペースがつくられました。これは日比谷公園12個分に相当します。

東京23区の一人当たりの公園面積は、欧米諸国の大都市に比べて少ないことが指摘されていますが、超高層ビルが生み出すオープンスペースによって、公園不足を補うという考え方が超高層ビルの黎明期にはありました。

ただ、せっかく広場がつくられても、人に使われない閑散とした広場も少なくありませんでした。

それを受けて、近年は魅力的な広場をつくろうとする試みもなされています。

例えば、屋上庭園(東京ミッドタウン日比谷、銀座シックス)、中庭(丸の内パークビル・三菱一号館美術館)などが整備され、多くの人でにぎわっています。

御茶ノ水駅前の新御茶ノ水ビルディングは、40年ほど前につくられた郭茂林先生らの設計による超高層ビルですが、低層棟には、掘り込んだ広場であるサンクンガーデンが設けられるなど、豊かな公共空間となっており、いつ訪れても多くの人が歩いています。

また、近年は、広場以外の地域貢献機能を設ける超高層ビルも増えつつあります。例えば、文化施設の整備や歴史的建造物の保存、防災関連施設などの整備が進んでいます。

 

■最後に

最後のまとめとして、これからの超高層ビルをどのように考える必要があるのかについてお話をします。

現在の超高層ビルを見ると、短期的な経済性という目先の利益だけを求めてつくり過ぎているように思います。

つくること自体が目的になっており、超高層ビルによって、どのような都市をつくりたいのかといった理念が欠けているように感じます。

ここで、霞が関ビル建設委員会の委員長だった氷室捷爾・三井不動産副社長の言葉を引用します。

「(霞が関ビルの建設は)より価値多き広場をつくる目的なための決断であった。かくして“超高層ビル”は、いわば目的ではなく、手段であった」(三井不動産編『霞が関ビルディング』1968年)

黎明期の超高層ビルには、明確な理念があったことに、我々は改めて思いを致す必要があるのではないでしょうか。

 

今後、日本で超高層ビルをたくさんつくる必要があるのかといった問題もあります。

なぜなら、2065年には人口が8800万人になると予想され、現在より約4000万人減ります。

ビルが大量に余ってくるなかで、超高層ビルが適切に維持管理されていくのか非常に疑問です。

これから超高層ビルの老朽化問題が急速に進むはずです。

東京では60メートル超のビルで30年経過した建物が156棟あり、さらに20年後には820棟に増えます。これは霞が関ビル330棟分の面積に及びます。超高層ビルが負の遺産になるかもしれないのです。

最後にお伝えしたいのは、郭茂林先生をはじめとする超高層ビルの黎明期に関わった人々には、超高層ビルをつくる理念や哲学が明確に存在していたことです。

超高層ビルを手段として、どのような都市を建設したいのか、人口減少時代に対応してどのような都市を実現すべきなのか、これらの問いに我々は真摯に向き合うことが求められているのではないでしょうか。

以上で、私の講演を終わります。

<参考文献>

大澤昭彦(2015)『高層建築物の世界史』講談社現代新書

 

<関連ページ>

超高層ビルの誕生とその歴史的意義(1)

超高層ビルの誕生とその歴史的意義(2)

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2 高層建築物の歴史

超高層ビルの誕生とその歴史的意義(2)

超高層ビルの誕生とその歴史的意義(1)の続き

■日本における超高層ビルの誕生の背景

続いて、日本における超高層ビルの誕生についてお話しします。

その前に、なぜ日本にエンパイア・ステート・ビルのような超高層ビルが建てられなかった理由を説明しますと、端的には次の2点が挙げられます。

一つは、1920年から建物の高さが100尺(31m)に制限されていたことです。

もう一つの理由は,日本は地震、台風などの災害国であり、地震や強風による揺れに耐えられる建物をつくる技術が未熟だったことです。

 

日本が高度成長期に入ると、100尺制限の弊害が議論されるようになります。

その理由の一つが、高さが抑えられた状態で床面積をたくさん取ろうとした結果、建物が横に広がり、建物周りのオープンスペースが狭くなってしまったことです。

さらに、床面積を増やすために、地上7、8階程度だったものを9階建てにしたことで、階高が低くなり、室内の環境は悪化しました。また、地下に階数を増やすことも行われました。

床面積が増えればそこに出入りする人も増えるので交通渋滞も深刻化しました。

こういった問題が高度成長期に入ると議論されるようになり、超高層ビルの研究が本格化していったのです。

 

■東京駅赤レンガ駅舎の超高層化計画から霞が関ビルへ

1958年に、当時の十河信二国鉄総裁が東京駅丸の内駅舎の超高層ビル計画を発表しました。

24階建て、約100mのビルに建て替える計画でしたが、当時建設技術が不十分だったため、建築構造学者の武藤清氏を中心とする委員会が立ち上がり、1962年に報告書がまとめられました。

それによれば、柔構造理論、簡単に言うと建物をがっちりして、揺れを抑えるのではなく、超高層ビルの場合は、逆に揺らしながら地震の力を吸収した方が合理的であるとの結論が示され、それによって超高層ビルの建設が可能となりました。

東京駅丸の内駅舎の建て替えは頓挫しましたが、この柔構造理論に基づく技術が霞が関ビル建設に活かされることになり、武藤清氏は霞が関ビルのプロジェクトで構造面から中心的な役割を果たすことになりました。

1962年には、河野一郎建設大臣が高さ制限の見直しを指示し、翌年には建築基準法が改正され、東京の一部で撤廃が決まりました。

その結果、1968年に霞が関ビルが誕生したわけです。

丁度この年、日本は西ドイツを抜いてGNPが世界第二位になりました。

霞が関ビルは高度成長期の日本のシンボルでもあったのです。これをきっかけに、日本は超高層ビルの時代に突入していきます。

 

■霞が関ビルにおける郭茂林の役割

霞が関ビルの計画は、これまでにない巨大なプロジェクトでした。そのため、霞が関ビル建設委員会が設置され、建築設計、設備設計、経営管理、構造設計などの観点から経済的・技術的な実現可能性が検討されました。

この建設委員会のなかで、とりわけ中心的な役割を果したのが郭茂林先生です。

委員会のメンバーは、一家言持っている人が多く集まっていたので、うまく調整する必要がありましたが、郭茂林先生の幅広い知識や多くの人に慕われる人柄がプロジェクトを円滑に進めたと言われています。

つまり、郭先生は、霞が関ビルプロジェクトのコーデネーターでありプロデューサーでもあったわけです。

郭茂林先生なくして霞が関ビルは完成しなかったと当時から言われていましたが、近年になりさらにその評価が高まっており、霞が関ビルを語るうえで欠かせないポイントの一つとなっています。

郭茂林先生はその後、台湾でも超高層ビル開発に関わり、台北101(完成時、世界一の高さ)が建設された新都心開発のマスタープランの作成にも関与しました。

マスタープラン作成は、当時の台北市長李登輝氏からの依頼を受けたものでした。台湾と日本の超高層ビルをつなぐ役割も、郭茂林先生を抜きには考えられなかったわけです。

また、西新宿の超高層ビル街のマスタープランにも郭茂林先生が大きく関わっていました。

 

超高層ビルの誕生とその歴史的意義(3)へ続く

2 高層建築物の歴史

超高層ビルの誕生とその歴史的意義(1)

2018年10月7日に開催された「第3回オール台湾デー」にお招きいただき、『超高層ビルの誕生とその歴史的意義』と題して講演をしました。その要旨を3回に分けて掲載します。

超高層ビルの誕生とその歴史的意義(1)

超高層ビルの誕生とその歴史的意義(2)

超高層ビルの誕生とその歴史的意義(3)

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■講演の趣旨

大澤昭彦と申します。現在、高崎経済大学地域政策学部で都市計画を教えています。都市計画という観点から、都市の高さや超高層ビルに関心を持って研究を続けてきました。

霞が関ビルが建てられてからちょうど50年を迎えた現在、超高層ビルは日常的な存在になっています。

超高層ビルが当たり前ではなかった半世紀前に、郭茂林先生をはじめとする方々が超高層ビルを実現させたわけです。

今日の講演は、「超高層ビルの誕生とその歴史的意義」というかなり大掛かりなタイトルではありますが、超高層ビルが生まれた歴史的な背景を簡単にお話しした上で、超高層ビルの歴史的意義、さらには超高層ビルがもたらした問題についても触れます。

そして最後に、人口の減少社会を迎えた日本において、超高層ビルはどうあるべきなのかをお話しします。

今回の講演が、これからの超高層ビルを考えるきっかけになればと思っています。

 

■超高層ビルの現状

まず、世界の超高層ビルの状況ですが、高さ150メートル以上の建物は(これは霞が関ビルより大きいビルを意味します)、2017年末までに4,242棟存在します。

150メートル以上のビルは2000年前後から急激に増えています。全体の75,8%、約4分の3が2000年以降に建設されています。

この20年は、世界的な超高層ビルブームと言えます。1990年代初めまでは、アメリカが超高層ビルの中心地でしたが、90年代半ばからは、アジアそれも中国が大半を占めるようになりました。

世界の超高層ビル推移
世界の超高層ビルの建設数の推移(出所:Council on  Tall Buildings and Urban Habitats(高層ビル・都市居住協議会)のデータベース(2018年5月18日時点)を元に作成。

■超高層ビル誕生の背景

続いて、超高層ビル誕生の背景をお話しします。現在の超高層ビルの源流はどこにあるのか、どうやって実現したのかといった点を簡単に説明します。

現在の超高層ビルの原型は、19世紀末にシカゴで生まれ、ニューヨークで発展を遂げました。いわゆる摩天楼です。

摩天楼誕生の背景には大きく分けて2つあります。

一つは産業革命以後、超高層ビルをつくる技術が進歩したこと。

もう一つは資本主義経済の確立です。

技術が進歩してもそれを欲しがる人、作りたい人がいないと実現しませんので、それを担保する資本主義経済の確立が欠かせませんでした。

もちろん、巨大建築物は摩天楼誕生以前も存在していました。日本では五重塔や天守閣、外国では教会、モスク、ピラミッドなどがあります。

ただ、それらはシンボリックな建物であり、実用性はありませんでした。一方、摩天楼はオフィス、ホテル、住居など、実用性のある建物でした。これが、近代以前の巨大建築物との大きな違いです。

超高層ビルを生んだ技術について触れておきます。

2点説明します。

一つは、19世紀半ば以降に、速く、安全な乗用エレベーターが開発・普及していったことです。

エレベーター開発以前、建物の高さの限界は、階段で登れる高さで決まっていました。

エリシャ・グレーブス・オーテイスが、1853年のニューヨーク万博で安全装置付きのエレベーターの実演を行い、彼はその後、自分でエレベーター会社を設立し、乗用エレベーターを世界に普及させました。

二つ目が鉄骨造の開発です。

鉄道や橋に使われていた鉄骨を垂直に組み立ててビルに応用されるようになったのは19世紀末でした。鉄骨造で建てると建物自身の重さが軽くなり、かつ高く出来たわけです。

エレベーターと鉄骨造の技術が組み合わされて超高層ビルの建設が可能になったわけです。

以上が大まかな超高層ビル誕生の背景です。

 

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京都市高さ規制の緩和は妥当か? ~「規制」と「緩和」のバランスの難しさ~

土地総合研究所のメールマガジン72号(2018年12月号)に、11月に発表された京都市の高度地区による高さ制限の一部緩和について寄稿しました。

以下のリンクから見ることができます。

今月の窓「京都市高さ規制の緩和は妥当か? ~「規制」と「緩和」のバランスの難しさ~」

土地総合研究所メールマガジン72号・目次

 

また、京都市の高さ制限の歴史について知りたい方は、以下の論文をご覧ください。

京都市における高度地区を用いた絶対高さ制限の変遷 ~1970 年当初決定から 2007 年新景観政策による高さ規制の再構築まで~(大澤昭彦)