なぜ皇居濠端の高層ビルは「100m」になったのか?

皇居外苑から丸の内の超高層ビル群を眺めると、高さ100mから200m級のビルに囲まれて窮屈そうに収まっているレンガ色の建物がある。

高さ99.7m(約100m)、25階建ての東京海上ビルだ。

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丸の内のスカイライン(中央のレンガ色のビルが東京海上ビル)

東京海上ビルの完成は1974(昭和49)年。だが、計画自体はその10年ほど前から検討されていた。当初の計画では、建物の高さは100mではなく、128m、30階建てだった。

計画当時、日本国内に100mを超える高層ビルは存在していなかった。しかも、場所が皇居の濠端だったため、東京海上ビルの超高層化は、皇居の美観を損ねるとして問題にされた。いわゆる「丸の内美観論争」である。

美観論争を経て、東京海上ビルは高さを減らして100mで完成。その後、大手町、丸の内で濠端に面する敷地では、不文律のように高さ100mのビルが建っていくことになる。

それではなぜ、128mから100mになったのか、また誰が100mに決めたのか。長年分からないまま、もやもやした状態が続いていた(少なくとも私が目にした文献で、これに言及したものはなかった)。

ところが、最近たまたま目にした本に、「100m」に決まった経緯が書かれていたことを発見した。

今里広記「私の財界交友録:経済界半世紀の舞台裏」(サンケイ出版、1980年)の中で、丸の内美観論争についてふれられていたのである。

以下では、まず丸の内美観論争の経過を簡単に説明した上で、高さが100mに決まった理由について述べてみたい。

■丸の内美観論争の経過

1966(昭和41)年、丸の内の濠端に立つ東京海上ビルを超高層ビルに建て替える計画が公になると、マスコミ、学界、建築関連団体のみならず、国会を巻き込んで議論を呼んだ。

肯定的な意見としては、敷地内に広場を持つ超高層ビルは、都市に太陽と緑をもたらす新しい都市のシンボルになり得るといったもの。一方、否定的なものとしては、皇居や丸の内の景観に調和しない、皇居を覗き込むような高層ビルは不敬であるといった意見が示されていた。当時の佐藤栄作首相は「どうも好ましくない」と反対の立場をとった。

同じく反対の姿勢を示したのは東京都である。

建築確認申請を受けた東京都は、なかなか建築確認を下ろさず、美観地区条例をつくって規制をかけようと試みた。当時、皇居周辺には都市計画法に基づく美観地区が指定されていたが、具体的な規制はかけられていなかった。建築規制を行うには建築基準法に基づく条例を制定する必要があったため、高さ等を規制する条例をつくろうとしたのだ。

また、丸の内地区の大地主である三菱地所も東京海上ビルの超高層化に反対した。当時、「丸ノ内改造計画」(1959年)に基づき、赤煉瓦ビル街を建替えて、軒高31mで揃った大規模ビルの街並みへの更新を進めていたためである。

論争が起きて1年ほど経過した1967(昭和42)年11月、反対していた東京都が建築確認を下ろした。同年4月に都知事に就任した美濃部亮吉が建築確認を下さない合理的な理由がないと判断したことによる。既に美観地区条例案は自然消滅していた。

ただ、東京都が建築確認を下したとしても、超高層ビルの場合は建設大臣の認定がなければ着工することはできなかった。当時は日本の超高層ビルの黎明期。未知の高さを持つ建築物であるため、構造の基準がはっきりと定まっていなかった。そこで、専門家で構成される「高層建築物構造審査会」が一件ずつ安全性を確認した上で、建築基準法第38条に基づき建設大臣が認定をする形が取られていた。

当時の建設大臣は保利茂。1968(昭和43)年11月には坪川信三に替わったが、両大臣とも認定手続を進めず、事態は膠着したまま時間だけが過ぎていった。結局、反対していたのが、「直属の上司」である佐藤栄作だったために決断できなかったのである。

ところが1970(昭和45)年9月に根本龍太郎建設大臣が認定書を受領、12月に工事が着工され、1974(昭和49)年3月に東京海上ビルは完成を迎えた。

東京海上ビル建替えが計画されてから既に約10年が経過していた。そして、当初、高さ128m、30階建てであったものが、100m、25階建てに縮小されたのである。

■佐藤栄作首相への直談判

それではなぜ、128mから100mになったのか、また、誰が100mに決めたのか。

その答えが、冒頭に述べた今里広記の「私の財界交友録:経済界半世紀の舞台裏」に記されているので、それを紹介したい。

ただ、今里広記と聞いても、ピンとこない人が多いかもしれない。

今里は、日本精工の社長を務めた実業家であり、何より日本の財界に幅広い人脈を持っていた。何かしら問題が起こると調整役として担ぎ出されるほど、財界から厚い信頼を受けていた。

超高層ビルに限ってもみても、財界主導で進められた世界貿易センタービルとサンシャイン60の建設には今里が多大な役割を果たしている(これらについては別の機会に記したい)。

丸の内美観論争が起きた際も、その信頼の厚さゆえに東京海上火災から調整を依頼された。今里は、美観論争が収束するまでの流れを知る立場にあったわけである。

 

今里は、まず高層ビルに反対の立場をとっていた佐藤栄作に直談判した。

総理は、「天皇陛下のお住まいをのぞくわけにはいかないからね」と従来の答えがそのまま、はね返ってきた。
「じゃあ、ひと足先にできているホテルニューオータニはどうなんですか。あそこからも、皇居はよく望めますよ」
負けずに、私も反論していった。 (今里広記「私の財界交友録」)

ホテル・ニューオータニは、1964(昭和39)年の東京オリンピックにあわせて、紀尾井町に建設された高さ72m、17階建ての高層ビルだ。当時、ビルとしては日本一の高さを誇っていた。

今里の反論に、佐藤栄作はこう返した。

「オータニは今里君、裏口じゃあないか。丸の内の東京海上とは違うからね・・・・・・・」
何と、ホテルニューオータニは皇居から見て、裏口だからという論法である。私はふきだしたくなったが、そこはじっと我慢して、「総理、お言葉を返すようですが、どっちが正面で裏口かは決まっているものでもないと思いますが・・・・・」とやり返したが佐藤首相は憮然としたままであった。(同)

■「100m」の理由:川島私案

今里は、認定の権限を持つ建設大臣にも直接アプローチし、佐藤栄作の説得を依頼した。

だが、保利茂も、続く坪川信三も佐藤を説き伏せることができなかった。そこで、白羽の矢が立てられたのが、自民党副総裁の川島正次郎だった。党のご意見番である川島は、佐藤栄作が首相になったときに大きな功績があったことでも知られる。佐藤を説得できるのは川島しかいないとの判断が働いたのだろう。

しばらくすると、川島が「私案」を携えて今里のもとを訪れた。この「川島私案」が、東京海上ビルを巡る丸の内美観論争の解決策となる。

それは、32階建を25階建にすれば、佐藤栄作を説得できるというものだった。

佐藤は、「東京海上ビルもホテル・ニューオータニと同じ十七階にするのなら構わない」と周囲にもらしていた。そこで川島は一計を案じた。

「東京海上の三十二階、佐藤首相の十七階―これを足して二で割ると、二十五階になるではないか。これで双方とも円くおさまる」(同)

ただ、ここで注意する必要がある。東京海上ビルの当初案は、32階ではなく、30階である。30階と17階を足して2で割ると、24階となる。実際に建ったビルは25階だ。

しかし、階数ではなく地上高さを見ると、東京海上ビルが128m、ホテル・ニューオータニが72m。足して2で割ると、ちょうど100mとなる。

そして、東京海上サイドは高さ100mに計画を変更して構造確定申請書を東京都に提出。すぐに建設省に回り、認定が下りた。

川島私案によって事はあっさりと進展した。

■不文律となった「100m」

東京海上ビルは1974(昭和49)年3月に竣工。その後、濠端には、示し合わせたかのように100mの超高層ビルが次々と建てられた。

サンワ東京ビル(1973年、高さ99.7m)、大洋漁業ビル(1978年、高さ99.95m)、三井物産本社ビル(1976年、高さ100m)など、100mは不文律として機能していった。

その後、大手町・丸の内・有楽町地区では、自主的な街のルールである「ゆるやかなガイドライン」が1998(平成10)年2月に策定され、その中にスカイラインの考え方が示された。

基本的に皇居を中心にすり鉢状のスカイラインを描くというもので、濠に面した部分は約100m程度、皇居から離れるほど高くなり、150mから200mまで可能とされた。この内容は、2000(平成12)年8月に策定された「大手町・丸の内・有楽町地区まちづくりガイドライン」に継承され、現在に至る(ガイドラインはその後改訂され、最新版は2014年に公表)。

皇居濠端の高さ100m基準は、いまや地域のルールとして共有されている。

だが、その数値に明確な根拠はない。景観工学や都市計画的な観点から決められたわけではなく、「足して2で割る」という政治的な決着で生まれたのである。

もちろん根拠が明確でなければ意味がないというわけではない。根拠が不明確でも、長い時間をかけて規範として共有されることもあるからだ。

しかし、この件に限らないが、現在使われている基準を金科玉条のように扱うことにはやや違和感がある。今ある基準をアンタッチャブルな前提とするのではなく、規制値が定められた経緯や理由を知った上で、その意味や必要性を吟味することが求められるのではないか。法制度や規制の歴史を研究する意義もそこにあると考えている。

 

<参考文献>

今里広記(1980)『私の財界交友録:経済界半世紀の舞台裏』サンケイ出版

大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり懇談会(2014)『大手町・丸の内・有楽町地区まちづくりガイドライン2014』

 

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「自由の女神像」が意味するもの

アメリカでは、たとえ不法移民であっても、親に連れられて移住した場合には強制退去させられることはない。オバマ前大統領の時代に設けられた救済措置だ。不法移住の責任は親が負うべきで、その子供に罪はないとの理屈に基づくもの。

ところが、2017年9月5日、アメリカのジェフ・セッションズ司法長官が、この救済措置を撤廃する方針を示した。オバマ政権からトランプ政権に代わり、移民への風当たりが強くなりつつあるが、撤廃方針はその一つといえよう。

ここで思い起こすのは、自由の女神像である。

自由の女神像は、アメリカの国家理念である自由やデモクラシーのシンボルであると同時に、アメリカへやってくる移民にとっても大きな意味を持つモニュメントである。

以下では、自由の女神がつくられた経緯を踏まえながら、その意味、象徴性について考えてみたい。

■摩天楼の先駆的存在

自由の女神像の高さは、女神が右手で掲げるトーチ(松明)までが46m、台座を含めると92mに及ぶ。

なお、マンハッタン島でトリニティ教会の高さ約86mを超えた初めてのビルは、1890年に完成したピュリッツァー・ビル(ニューヨーク・ワールド・ビル)で、高さは94m。1886年に完成した自由の女神像とほぼ同じ高さだ。

つまり、べドロー島(現リバティ島)には、ピュリッツァー・ビルの4年前に、トリニティ教会の高さを上回る建造物があったわけだ。

もちろん実用的なビルである摩天楼とは異なり、あくまでもモニュメントではあるもとはいえ、自由の女神像はその後のマンハッタンにおける超高層化の先駆的存在だった。

■独立を記念するシンボル

ここで、自由の女神像が建立された経緯を確認しておきたい。

先に述べたが、自由の女神は摩天楼誕生の直前の1886年にニューヨークで建設された(なお、首都ワシントンD.C. に立つオベリスク状のモニュメント、ワシントン記念塔はその翌年に完成)。

自由の女神の正式名称は「アメリカ独立の記念像:世界を照らす自由」だ。つまり、アメリカの独立を記念して建立されたモニュメントであることがわかる。アメリカ独立戦争を支援したフランスとの友好を示す証として、フランスからアメリカに贈られたのである。

フランスが像の制作とアメリカへの輸送を担当し、アメリカが台座の設計・建設を行うという米仏の共同プロジェクトであった。像は彫刻家フレデリック=オーギュスト・バルトルディが設計し、鉄骨の骨組みはエッフェル塔にその名が残るギュスターヴ・エッフェルが担当した(なお、エッフェル塔の完成は自由の女神完成の3年後の1889年)。

■マス・メディアの時代

ニューヨークの欠かせないランドマークともいえる自由の女神像だが、建設当時は必ずしも好意的に受け入れられていたわけではなかった(このあたりはエッフェル塔と類似する構図である。別稿「高層建築物に対する拒絶反応と慣れ」参照)。

一般市民は、自由の女神の建設を一部の富裕層が勝手に進めていることと冷ややかに見ていたという。それゆえ台座の建設費用もなかなか集まらず、独立宣言100周年の1876年には間に合わなかった。

建設費用は、ジョセフ・ピュリッツァーが立ち上げたワールド新聞社が公共精神と愛国心に訴えかける一大キャンペーンを展開し、国民から寄付を募ることでまかなわれた。自由の女神像がアメリカの理念を具現化したものとして認識されるようになったのは、メディアの力も少なくなかったのである。

ワールド新聞社がつくったピュリッツァー・ビルは、前述のようにトリニティ教会の高さを超える最初のオフィスビルであった。自由の女神とともに、新聞王ジョセフ・ピュリッツァーが関与していたことは偶然だったのだろうか。

自由の女神と摩天楼は、マス・メディアが台頭していく時代をも象徴していたのである。

■移民を迎える寛容のシンボル

1886年に自由の女神像が完成すると、新たな意味を持つようになる。それは世界各地からアメリカへやってくる移民達によって付与されていった。

自由の女神像が立つリバティ島は、大西洋からマンハッタンへ向うニューヨーク港の玄関口に位置する。つまり、自由の女神は、アメリカにやってくる人々が最初に目にするランドマークであった。

フランシス・F・コッポラ監督の「ゴッドファーザーpartⅡ」で、イタリア・シチリア生まれの主人公が、移民船の上から自由の女神を見上げるシーンがある。映画の冒頭にこのシーンを見せることで、自由の国・アメリカに希望を見出す主人公の心情を表現しているわけだ。

つまり、自由の女神像は、祖国を離れて新たにアメリカへやってくる移民を慈悲深く迎えてくれる寛容のシンボルであった。

自由の女神像の台座には、自らもロシアからの移民であったエンマ・ラザルスの詩が刻まれている。

  家なく嵐に打たれた者たちへ自由の女神は
  黄金のドアのかたわらでランプを掲げる

  エバの亡命した子どもたち、われわれはみなあなたを求める
  あなたの慈悲深いまなざしがわれわれの上に降り注ぐ・・・・
(若桑みどり『イメージの歴史』から引用)

自由の女神像が掲げるトーチは、移民者を自由の国アメリカに迎え入れる灯台のような役割を担ったともいえるだろう。このようにして、自由の女神像は、「移民者の母」として認識されるに至る。

■自由の女神像を巡る問題

2017年の4月から8月にかけて、自由の女神像のあるリバティ島の周辺に大型船舶が長期停泊して問題となった。ロシアやドイツの富豪が所有する大型クルーザー3隻が、自由の女神像への眺めを損なうというのである(共同通信2017年9月2日)。景観問題に加えて、移民のシンボルである女神像が金持ちによって独占されることへの忌避感もあったといわれる。

だが、先に述べたように、自由の女神像の建設は、もともと富裕層が中心になって進められたプロジェクトで、移民にとっての象徴性はその後に生じたものだった。富豪の船舶によって自由の女神が見えにくくなったことは、当初の自由の女神を巡る議論、つまり、富裕層への批判が形を変えて繰り返されているともいえる。

そして、冒頭で触れたように、親とともにアメリカに不法移住した子供を強制退去させない救済措置が撤廃される見通しとなった。この問題と、自由の女神像周辺での船舶停留問題は、直接の関連はないとはいえ、時代の空気を反映しているような気がする。

アメリカという国の根幹が自由と平等で支えられているとすれば、そのシンボルが自由の女神像といえる。自由の女神像の意味を再認識することによって、自由や平等とは何か、寛容とは何かを改めて考える必要があるのではないか。

 

<参考文献>

小田基(1990)『「自由の女神」物語』晶文社

若桑みどり(2012)『イメージの歴史』筑摩書房(ちくま学芸文庫)

GINZA SIXがもたらした新たな眺め ~「屋根」がつくる景観~

 

■GINZA SIXの屋上庭園

2017年4月20日、銀座松坂屋の跡地に新たな複合商業施設「GINZA SIX(ギンザシックス)」が誕生した。
高さは56m。超高層ビルラッシュの東京の中では、控え目な高さである。

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写真1 GINZA SIX

当初、この開発は高さ190mの超高層ビルでの建替えが予定されていた。

ところが「銀座に超高層ビルはいらない」と地元が反発。いわゆる「銀座ルール」の上限である高さ56mで建設された 1)。超高層ビルを必要としないまちづくりこそが、銀座の価値を高めると地元は判断したわけだ。

こうしてGINZA SIXは、超高層ビルに頼らない銀座の景観に色を添えることになる。

「銀ブラ」の言葉に代表されるように、銀座の景観は、歩道から見た街並みを指すことが多い。だが、GINZA SIXは新たな視点を銀座にもたらした。

それは、高所から見下ろす屋根(屋上)への眺めである。

もちろんこれまでにも、高所から眺められる場所はあったかもしれない。しかし、銀座通りだけでなく、銀座の全方位にわたって周囲への眺めを意識させたのは、GINZA SIXが最初ではないか。

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写真2 GINZA SIXの屋上庭園

■屋根の景観

では、銀座の屋根の景観とは何か?

GINZA SIXの屋上庭園は、誰でも入れる広場となっている 2)。屋上を一周する展望廻廊からは、ビルの周囲を360度眺めることができる。

西に面する銀座通りを見下ろせば、買い物を楽しむ人の多さに眼を奪われる。北に目を向ければ東京スカイツリー、南に東京タワーと、東京の二大ランドマークを遠望できる。

しかし、この廻廊をぐるっと回ってみて気になったことは、銀座通りでもスカイツリーでもない。

眼下に広がるビルの屋上だ。

銀座ルールによって、近隣にGINZA SIXより高い建物はない。周りのビルの屋上には、空調の室外機や看板の鉄骨などが、むき出しのままさらされている。

墓石のように、所狭しと屋上に並ぶ室外機の数には圧倒される。

これがGINZA SIXの屋上庭園から見える屋根の景観である。

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写真3 周囲のビルの屋上

■屋根の景観が目立つ理由

だが、ビルの屋上への眺めといわれても、周囲のビルの所有者は困惑するだけだろう。

そもそもビルの屋根・屋上は、見られることを前提としていない。いわば、ビルの屋上は「無意識の景観」ともいえる。

であるがゆえに、その無防備な風景を目の当たりにすると、見てはいけないものを見てしまったような罪悪感を覚えてしまう(だらしない格好のまま外出している知人を偶然目の当たりにしてしまったような気まずさ?)。

超高層ビルや東京スカイツリー等の展望台であれば、眼下の建物ははるか下。個別の建物をあまり意識することはない。

一方、GINZA SIXの屋上はとりわけ高いわけではなく、周囲のビルとの距離が近い(高低差が小さい)ために、ことさら屋上が目についてしまうのだろう。

■屋根の景観をどう考えるか?

銀座の屋根の景観をどうするのか。GINZA SIXは新たな問題提起をしたのではないか。

東京らしい混沌とした風景として楽しむことも一興だろう。もしかすると外国人観光客の受けはいいのかもしれない。

とはいえ、銀座としてそれでよいのだろうかとも思ってしまう。屋上の設備を集約化し、空いた部分に緑を植えることで、銀座全体を空中庭園のようにしつらえてもよいだろう。

いずれにせよ、屋上広告・工作物も含めて、屋根のあり方を検討する余地があるのではないか(何事も動きの早い銀座のことだから、既に考えているのかもしれないが)。

【注】
1)GINZA SIXの開発経緯と銀座ルールについては、竹沢えり子「銀座にはなぜ超高層ビルがないのか: まちがつくった地域のルール 」(平凡社新書、2013年)に詳しい。銀座のまちづくりの全貌を理解できる良書。
2)GINZA SIXは、都市再生特別地区(都市計画法、都市再生特別措置法)の指定によって容積率の緩和を受けているが、屋上庭園を一般に公開することが容積割増の要件の一つとなっている。

「高さ」から見た広島の新サッカースタジアム問題

広島市でサッカー専用スタジアムの建設が計画されているが、その場所がなかなか決まらない。

新スタジアムを利用することになるJリーグのサンフレッチェ広島は、市中心部の広島市民球場跡地を要望しているが、広島県、広島市、商工会議所は、市南部に位置する「広島みなと公園」で建設を進めたいようだ。

利便性を考えれば、市中心部から7km離れた「広島みなと公園」ではなく、繁華街に近い市民球場跡地の方が適切であろう。

そもそも、サンフレッチェ広島のホームスタジアムである「エディオンスタジアム広島(広島ビッグアーチ)」のアクセスが悪いことも、新スタジアム建設の機運が高まった一因になっているのだ。

□広島市民球場跡地案が難しい理由

ところが、行政側は市民球場跡地案に難色を示している。どうやら、さまざまな開発利権が絡んでいるようであるが、正確なことは知りようもないので、この点にはふれない。

行政側が作成した「サッカースタジアムに係る事業の実現可能性調査」によると、市民球場跡地案の問題点の一つが、建築物の高さ制限に対応するために事業費がかさんでしまうことであるようだ。

仮に国際大会を誘致するために必要な3万人規模のスタジアムをつくろうとすると、市民球場跡地の周辺でかけられている高さ制限がネックとなる。高さ制限を満たすためには、地面を掘り込んで、地上に出る部分をできるだけ低く抑える必要が出てくるわけだ。

その掘り込み費用に99.4億円かかり、総建設費が約260億円に跳ね上がるという。広島みなと公園案での建設費が約180億円であるから、80億ほど高くなる計算だ。なお、今年完成したガンバ大阪の本拠地「吹田スタジアム」の総建設費140億円と比べると、ほぼ倍である。

ここで気になることが2点ある。

市民球場跡地でのスタジアム建設の障壁の一つになっているという建築物の高さ制限とは何か。もう一つは、掘り込む作業に100億円もの費用がかかるのだろうかという点である。

□広島市の高さ制限とは?

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市民球場跡地の南側に、原爆犠牲者を鎮魂する平和記念公園が位置する。公園内には被爆や平和のシンボルともいえる原爆ドームがあり、1996年にユネスコの世界文化遺産に登録された。

世界遺産に登録されると、登録資産である原爆ドームの保存はもちろん、その周辺環境(バッファー・ゾーン=緩衝地帯)も守ることが求められる。原爆ドームのバッファー・ゾーンは、平和記念公園の周辺約50mまでが指定されており、その中に市民球場跡地の一部も含まれる。

このバーファー・ゾーンに、市民球場跡地一帯を加えたエリアで、前述の高さ制限が指定されている。市が策定した「景観法に基づく届出等に係る事前協議制度に関する取扱要綱」を根拠とするものだ(1)。

高さ制限は、20m、25m、37.5m、50mの4種類。市民球場跡地には、20mと25mの制限がかけられている。

跡地は原爆ドームに近接しているため、その高さ25mを超えないように制限し、シンボルである原爆ドームを際立たせようとしているわけである。

世界遺産を中心とする景観は、広島市だけでなく、世界にとっての大きな共有財産である。その財産を守るための制限は、必要なものといえるだろう(2)。

 

原爆ドーム周辺高さ制限図
平和記念公園周辺の高さ制限図(出典:広島市資料)

 

□高さ制限はスタジアム建設を妨げるのか?:マインツ・コファス・アレーナの例

それでは、25mという高さ制限は、スタジアム建設の支障になるのだろうか。

行政側が示した市民球場跡地でつくった場合のスタジアム案の地上高さは25m。高さ制限の範囲内に抑えられている。その分、7.3m掘り込むことで、3万人の規模を確保している。その掘り込み費用が約100億円と試算されていることは先に述べた。

この100億円という額は妥当なものなのか。

海外の事例ではあるが、ドイツ・ブンデスリーガのマインツの本拠地、コファス・アレーナ(Coface arena)を紹介したい。

改めて説明するまでもないと思うが、マインツは、昨年まで岡崎慎司が所属し、現在は武藤嘉紀が主力選手として活躍していることで知られる。

コファス・アレーナは、2011年に完成したサッカー専用スタジアムである。収容人数は3万4千人。広島が想定する規模よりやや大きいが、ほぼ同程度だ。スタジアムの一部を掘り込んでいるために、地上高さは30mに抑えられている。

昨年、現地に行ったのだが、スタジアムの中は高さ(深さ)を感じるものの、外から見ると圧迫感は少ない。

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ここで注目したいのが、建設費用だ。

コファス・アレーナの建設費は6000万ユーロ。1ユーロ120円で換算すると約72億円となる。当然ながら掘り込むための費用も含まれる。

もちろん、コファス・アレーナと広島を単純には比較できないだろう。例えば、コファス・アレーナと異なり、市民球場跡地は既成市街地の中にある。それゆえ、地中埋設物の移設・撤去等の費用を要するだろうし、河川沿いにあるために地盤も緩く、基礎工事費用がかさむのかもしれない。

様々な検討を重ねた上での100億円なのだろう。だが、コファス・アレーナの例を見てしまうと、さすがに100億円は高すぎるのではないかと感じてしまう。何とか安くする工夫の余地はないのだろうか。

 

一人のJリーグサポーターとしては、もし掘り込む費用に100億円もかからず、費用面の問題が解決可能であれば、市民球場跡地での建設を望む。景観にも配慮したスタジアムは、平和記念公園一帯の価値向上にも寄与するに違いない。

「サッカー観戦」とは、試合を見ることだけではなく、スタジアムやそれを取り巻く街全体を体感することでもある。都市の中心部にスタジアムがあることは、サッカー観戦の満足度を飛躍的に高めてくれるだろう。

市民球場跡地にスタジアムがつくられれば、今後計画される全国のサッカー専用スタジアムの立地に大きな影響を与えるはずだ。

言い過ぎかもしれないが、この広島の新スタジアム問題は、Jリーグの未来もかかっているのである。

【注】

(1)この要綱は、もともと1995年に「原爆ドーム及び平和記念公園周辺建築物等美観形成要綱」として策定された。なお、要綱に高さ制限が追加されたのは2006年。マンション問題を契機に実施されることになった。

(2) この高さ制限は、「要綱」である。つまり、法的根拠がなく、強制力はない。あくまで行政が事業者等に基準の遵守を「お願い」するだけのものである。本来であれば、景観法に基づく景観計画や景観地区、都市計画法に基づく高度地区といった法的手法で担保すべきであるが、高さ制限のような権利制限が強い規制の場合、地権者間の合意形成が難しい。かつて、市は要綱の高さ制限を景観計画に移行させようとしたが、地元地権者の反対が強く、案を白紙撤回したとの経緯がある。

【参考資料】

・サッカースタジアム実務者検証作業部会(広島県、広島市、広島商工会議所)「サッカースタジアムに係る事業の実現可能性調査」2016年4月20日

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1460547263945/simple/jitugenkanousei.pdf

・藤江直人「どうなる広島の新スタジアム問題」2016年4月24日 ※問題点が簡潔に整理されていて大変参考になる。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160423-00000001-wordleafs-socc

・コファス・アレーナに関する各種ホームページ

http://www.worldfootball.net/venues/coface-arena-mainz/1/

http://www.gvg-mainz.de/stadion/ (ドイツ語)

国会前庭の時計塔:「31.5m」に込められた意味

永田町の高台に立つ国会議事堂の正門前に「国会前庭」と呼ばれる公園がある。

戦前は陸軍参謀本部があった場所だが、1964(昭和39)年の東京オリンピック開催にあわせて公園として整備された(当初、オリンピックに間に合うよう計画されたが、一般公開は1967年)。

台地の突端にあるため、皇居の濠から丸の内の高層ビル群、霞ヶ関の官庁街まで一望することができる。ただ、普段、訪れる人は少なく、緑に囲まれた空間は静謐な雰囲気を保っている。

 

公園は、南北二つの区域に分かれており、北側に洋式庭園、南側に和式庭園が配置されている。そして、洋式庭園の中心には、国会前庭のシンボルともいえる塔が広い空に向けて伸びている。

憲政記念館(旧尾崎記念会館)と一緒に建設された時計塔だ。「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄の業績を記念して、1960(昭和35)年に建設された。この時、公園はまだ完成していない。

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時計塔は鉄筋コンクリート造で、高さは31.5m。三つの柱が合わさった形は、立法・行政・司法の三権分立を象徴しているという。そういわれれてみれば、この塔を中心に、国会議事堂、霞ヶ関の官庁街、最高裁判所が配置されているようにも見える。

□塔の高さ「31.5m」の理由

ここで注目したいのは、時計塔の高さ「31.5m」である。

やや中途半端に見えるこの数値にはどのような意味が込められているのだろうか。

その理由を探ってみると、塔の前に置かれた銘板には、こう書かれている。

「塔の高さは、「百尺竿頭一歩を進む」ということわざの努力の上にさらに努力して向上するの意味から百尺(30.3メートル)より高くした31.5メートルに設定された」

立法、司法、行政が、それぞれ更なる進歩を目指して努力を重ねることを塔に象徴させたのであろう。

だが、100尺という数字そのものには、この時代ならではの意味もあった。

塔が完成した1960(昭和35)年当時、建築物の高さは最大31mに制限されていた。いわゆる「100尺制限」だ。

100尺制限とは、1920年に施行された市街地建築物法(建築基準法の前身)に基づく建築物の高さ制限で、住居地域は65尺、それ以外の地域は100尺に規制された。1931(昭和6)年にメートル法となり、65尺が20m、100尺が31mとなったが、戦後、市街地建築物法が建築基準法に再編された後も、この高さ制限は継承された。

時計塔が完成した1960年は、池田勇人内閣が「所得倍増計画」を発表し、高度成長期が本格化しようとしていた時期にあたる。その前年には東京オリンピックの開催も決定し、首都東京の都市改造もはじまりつつあった。

好景気が、旺盛なビル需要を生み、建物の大規模化が進んだ。ただし、31m制限の範囲内である。

それゆえ、高さ制限の撤廃を求める声も大きくなっていく。1960年当時、100尺制限は時代遅れの規制と見る向きが少なくなかったのである。

実際、同年には、建築家の丹下健三も高さ制限の撤廃を求める論文(注1)を発表し、建設省も撤廃に向けて研究を進めていた。超高層ビル時代の前夜のことだ。

「百尺竿頭一歩を進む」に含まれる「百尺」は、もちろん比喩ではあるのだが、当時のビルの高さの限界であった31m(100尺)制限を超えるとの意味も読み取ることができるだろう。

□川崎秀二が高さに込めた想い:15mから31.5mへ

時計塔の高さを決めたのは、尾崎行雄記念財団理事長だった衆議院議員の川崎秀二だ。

設計を担当した海老原一郎は、当初、時計塔の高さを15mとしていた。ところが川崎は15mでは低すぎると考えた。

「十五メートルでは丸の内はおろか霞ヶ関一帯でもその存在がわからない。そこで私は元来時計塔を建てる意義は、咢堂(注2)がやかましかった「会合時間の厳守」を周知させるためのものだから、十メートルや十五メートルの高さでは問題にならない。建築法の制限一杯まで伸ばすべき事を主張した」(「建設の思い出と忘れえぬ人々」『尾崎記念会館・時計塔建設記』5頁)。

川崎の言う「建築法の制限一杯まで伸ばす」とは先に見た31m制限のことである。ただし、ここで注意すべきなのは、当時の31m制限は屋根や壁のある「建築物」が対象で、時計塔のような工作物は規制の対象外であったことである。したがって、つくろうと思えば31mを大幅に上回るものも建設可能だった(高さ333mの東京タワーが建設できたのも工作物だったため)。

いずれにしても「100尺制限(31m制限)」を意識して塔の高さが決められたことは間違いないだろう。

最終的に決まった塔の高さ31.5mは、31m(100尺)を僅かに上回る。「それなら百尺竿頭一歩を進めるという事になり、進歩的思想を表現する事にもなる」(同上)と川崎は述べている。

つまり、塔の高さは、ことわざに由来するというより、100尺制限の数字が直接的な理由であり、結果的にことわざの意味にも符合したと考える方が自然なのかもしれない。

□「31m制限」はどうなったか?

最後に、31m(100尺)制限の行方について触れておきたい。

1963(昭和38)年の建築基準法改正で容積地区制度が創設。その翌年に東京で容積地区が指定された。これで環状6号線の内側では絶対高さ制限が撤廃となり、代わりに容積率制限が実施されることとなる。

同年、高さ72mのホテルニューオータニが完成し(注3)、1968(昭和43)年には高さ147m(最高部の高さ156m)の霞が関ビルが竣工した。超高層ビル時代の幕開けである。

霞が関ビルや西新宿の高層ビル群の影に隠れがちだが、国会前庭の時計塔は、100尺制限の時代から超高層の時代への転換を象徴する存在でもあったのである。

 

(注1) 丹下健三(1960)「都市計画関連諸法についての私見」『都市問題』51(11)、東京市政調査会、p84-92

(注2) 咢堂は、尾崎行雄の雅号。

(注3) ホテル・ニューオータニは、容積地区指定前に計画されたため、絶対高さ制限の例外許可(当時の建築基準法57条但し書き)で建設された。

 

□参考文献

久保作次編『尾崎記念会館・時計塔建設記』尾崎行雄記念財団、1961年

 

世界遺産サンクト・ペテルブルクにおける超高層ビル論争 ~国家的プロジェクトと景観問題~

今回は、ロシアの古都サンクト・ペテルブルクで起きた超高層ビル論争を紹介したい。

サンクト・ペテルブルクは世界遺産に登録された歴史都市である。

その近接地に高さ396mの超高層ビルが計画され、歴史的景観にそぐわないとして問題となった。

しかし、この超高層ビルは、プーチンやメドベージェフといった新旧大統領が大きく関わる政府系企業・ガスプロムネフチの本社ビルとして計画された。いわば「国家プロジェクト」としての超高層ビル開発だったために問題は複雑となった。

以下で、その経緯や問題の論点を見ていきたい。

■サンクト・ペテルブルクの歴史地区と世界遺産登録

サンクト・ペテルブルクは18世紀初頭から1917年のロシア革命まで、ロシア帝国の首都であった。
ソ連時代にレニングラードと改称されたが、ソ連崩壊後の1991年に元の名前に戻された。

市中心部の歴史地区には、ピョートル大帝(位1682~1725年)がイタリアなどの建築家を招いてつくった宮殿や教会等の壮麗な建築物群が残されている。

その歴史的な価値が認められ、1990年には世界遺産に登録された。

地区内の景観を保全するため、地区内の建物は、世界三大美術館の一つ、エルミタージュ美術館(冬の宮殿)の高さを超えないように規制されている。

その結果、歴史地区では整然とした街並みが保たれているのである。

■政府系企業による高さ396mの超高層ビル開発

2006年、その歴史地区の景観を大きく揺るがす超高層ビルの計画が明らかとなった。

ロシアの政府系天然ガス企業「ガスプロム」がサンクト・ペテルブルク市と共同で高さ396mの「ガスプロム・シティ」の建設を発表したのである。

当時、ガスプロムは、世界的な石油・天然ガス価格の高騰によって業績を拡大させていた。

その傘下企業、ガスプロムネフチの本社機能ビルとして計画されたのが、この超高層ビルだった。

サンクト・ペテルブルクは、ウラジミール・プーチン大統領の出身地である。そのため、このビルは「プーチン・タワー」とも揶揄されることとなる。

市の全額負担による建設への反発

建設計画が明らかになると、建設費用の捻出方法が問題視される。

サンクト・ペテルブルク市が建設費用を全額拠出し、完成後、ガスプロムネフチの所有になると発表されたため、世論の不評を買った。

市としてみれば、国内有数の企業を受け入れることで、税収の増加や再開発による経済効果を見込んだのだろう。

しかし、市の財源を一企業のために利用することへの反発は大きかった。

そこで、2007年6月、市の全額出資ではなく、ガスプロムネフチが51%、市が49%と変更された。

さらに、プロジェクトの名称も、一企業を名に冠するのではなく、「ガスプロム・シティ」から開発予定地の地区名である「オフタ・センター」へと変更されることとなった。

高層ビルが与える歴史的景観への影響

だが、問題はそれだけにとどまらなかった。

計画区域が世界遺産の歴史地区に隣接しており、高層ビルが歴史的景観に与える影響が懸念されたのである。

市内の高い建物といえば、ペトル・パウェル大聖堂(122.5m)や聖イサク聖堂(101.5m)などの歴史的建造物のほか、ソ連時代の1966年に建設されたサンクト・ペテルブルク・テレビ塔(高さ310m)くらいしかなかった。

このことからも、396mのオフタ・センターの大きさがわかるだろう。

さらに、ビルの高さだけでなく、場所も問題視された。

オフタ・センターは中心部からは約5キロ離れているものの、ネヴァ川を挟んで歴史地区に接している。

しかも、ロシア革命時に武装蜂起の作戦本部が設置された「スモーリヌイ」の対岸に位置していた。

象徴的な場所に隣接していたことが、反発をより助長したのである。

■ユネスコによる警告と高さ制限の強化

世界遺産登録を行ったユネスコは、高層ビル計画が歴史地区に隣接していることを懸念した。

そこで、2007年にバルボサ・ユネスコ事務局次長が、オフタ・センターの計画を進めるのであれば危機遺産リストへの登録も辞さないと警告した。

また、2009年3月には市議会が建設予定地周辺に高さ100mの高さ制限をかけた。

この数値は、歴史地区のシンボルの一つである聖イサク大聖堂(高さ101.5m)の高さを超える建物を認めないことを意味する。

■一転、建築許可へ:プーチン、メドヴェージェフの庇護を受けた「国家プロジェクト」

ところが、同年9月、市の土地利用・建設委員会が、例外的に高さ403mまで認める決定を行い、翌10月にはマトビエンコ市長が建築を許可した。

当初の高さは396mであったことから、最終的に高さが17m上乗せされたことになる。

許可にあたって市側は、タワーは市中心部から離れた世界遺産区域外であるために景観上の影響は少なく、市の発展に必要な開発であると主張した。

なお、計画を許可したマトビエンコ市長はプーチンのKGB人脈に連なる人物である。

2008年に大統領に就任したドミートリー・メドヴェージェフも、プーチン同様にサンクト・ペテルブルク出身で、さらにプーチン大統領時代(一期目)にガスプロムの会長を務めたこともあった。

つまり、オフタ・センターはプーチン、メドベージェフといった強力な権力者の庇護のもとで推進されていた国家的プロジェクトだったのである。

■世論の反発とユネスコの勧告

しかし、世論を無視して高さ制限の緩和が強引に進められたことが一層の批判を呼ぶことになる。

まず、ロシアのアレクサンドル・アヴデーエフ文化相が、市長の建築許可を違法としたロシア文化財保護監督局の決定をサンクト・ペテルブルク検察に送付した。

同じ頃、建設に反対する市民約3000人が抗議デモを行い、世論調査でも建設反対が66%と全体の3分の2を占めた(賛成は20%)。

また、ユネスコもオフタ・センターの建設中断と代替地の検討を勧告する決議を行った。

■オフタ・センター開発地の移転決定、高さが463mへ

こうした反発を受け、開発の動きに変化が生まれる。

2010年10月、当時のメドヴェージェフ大統領が「スモーリヌイの隣に建てる必要はあるのか」と開発場所に疑問を呈し、さらに、ユネスコとの協議が完了してから建設を開始すべきとの見解を示した。

この発言が影響したのか、12月には、マトビエンコ市長がオフタ・センターの建設地を移転させることでガスプロムと合意したと発表した。

この計画変更については、市民や国際社会との対話協調路線を志向するネドベージェフが大統領になったからこそ実現したとの見方がある一方、2012年の大統領選に向けたパフォーマンスと捉える意見も少なくなかった。

その後、建設予定地が、市西部のフィランド湾沿いに面したプリモルスカヤ地区ラフタ(14ha)に変更、2012年8月に市当局によって建設の許可が下ろされた(同年5月にプーチンが大統領に就任(二期目))。

移転地はサンクト・ペテルブルクの中心部から約9キロ離れているが、移転に併せて高さが60m上積みされて463mとなった。

この計画地の移転や高さの変更に関して議論が尽くされていないことへの批判も見られ、景観論争は未だくすぶったままとなっている。

このサンクト・ペテルブルクの景観論争は、世界遺産に登録されたからといって、国がその歴史的環境を守ってくれるとは限らないことを示している。

その意味で、このケースは、神宮外苑の風致地区における新国立競技場の建設問題と類似しているかもしれない。

<参考資料>

オフタセンター公式ホームページ  http://www.ohta-center.ru/en/ ※リンク切れ

服部倫卓(2011)「ガスプロムとペテルブルグの特殊な関係」『ロシアNIS調査月報56(4)』

毎日新聞東京朝刊2007年6月12日「古都に「ガスプロム」巨大タワー計画 揺れる世界遺産の街」

読売新聞2008年10月28日「[明日へ]世界遺産を守る(6)再開発と歴史の調和を」(東京夕刊)

朝日新聞 2009年10月12日 「400メートルのビル計画、世界遺産のロシア古都大揺れ」

共同通信 2009年10月10日「超高層ビル承認で論争、ロシア 世界遺産のサンクト市」

時事通信 2009年10月11日「高層ビル計画に抗議デモ=世界遺産が危機-サンクトペテルブルク」

東京新聞 2009年12月27日「 『プーチン・タワー』計画 揺れる古都 市民反発 市は強硬姿勢」

時事通信 2010年12月10日「摩天楼建設場所の変更決定=景観に懸念-サンクトペテルブルク」

読売新聞2010年12月14日「超高層ビル「やっぱりダメ」 サンクトペテルブルク市長」(東京朝刊)

『高さ制限とまちづくり』出版のお知らせ

このたび、拙書「高さ制限とまちづくり」(学芸出版社)が発売されましたのでお知らせします。

本書の内容は、我国における建築物の高さ制限の歴史的変遷にはじまり、高度地区(都市計画法)と景観計画(景観法)を活用した高さ制限の運用実態を概観したうえで、これらの制度を用いた全国20自治体の具体的な事例をまとめています。そして最後に、高さ制限の意義や制度の活用にあたってのポイントを整理しています。

高さ制限の歴史から実態までを網羅的に紹介した本書は、地域の景観や環境保全に取り組む市民や自治体関係者など、都市の高さのあり方に関心を持つ方にとって参考になると思います。是非ご一読ください。

◇詳細は学芸出版社のホームページをご覧ください(目次、序文、あとがきが読めます)。

「高さ制限とまちづくり」 大澤昭彦 著 学芸出版社 3700円+税

http://www.gakugei-pub.jp/mokuroku/book/ISBN978-4-7615-3210-9.htm

 

<高さ制限とまちづくり:目次>

序 なぜ高さ制限は必要か

第1章 高さ制限の歴史的変遷

1 戦前における高さ制限(市街地建築物法下の高さ制限)

2 戦後における高さ制限(旧建築基準法下の高さ制限)

3 高度成長期における高さ制限(容積制全面導入後の高さ制限)

4 安定成長期における高さ制限

5 バブル経済崩壊以降の高さ制限

6 歴史的変遷からみた高さ制限の特徴

第2章 高さ制限の実態と課題

1 高さ制限の手法とその課題

2 絶対高さ型高度地区を用いた高さ制限の実態と課題(事前確定型高さ制限)

3 景観計画を用いた高さ制限の実態と課題(行政指導型高さ制限)

第3章 高さ制限を活用したまちづくりの事例

1 古都の景観保全のための高さ制限:京都市/大津市

2 城下町の景観保全のための高さ制限:松本市(松本城周辺)/佐賀市(佐賀城公園周辺)

3 庭園・社寺の眺望景観保全のための高さ制限:東京・北区(旧古河庭園)/宇治市(平等院周辺)

4 門前町等の歴史的街並み景観保全のための高さ制限:伊勢市(伊勢神宮周辺)/太宰府市(太宰府天満宮周辺)

5 水辺の景観保全のための高さ制限:諏訪市(諏訪湖・高島城)/犬山市・各務原市(木曽川周辺)

6 山の眺望景観保全のための高さ制限:鹿児島市(桜島・城山周辺)/岐阜市(金華山・長良川周辺)

7 都心景観の保全・創出のための高さ制限:東京・中央区(銀座周辺)/大阪市(御堂筋周辺)

8 大都市における住環境・景観保全のための高さ制限:東京・新宿区/札幌市

9 都心近郊住宅地における住環境・景観保全のための高さ制限:横須賀市/芦屋市

10 地方都市における住環境・景観保全のための高さ制限:山形市/水戸市

第4章 高さ制限を活用したまちづくりに向けて