なぜ皇居濠端の高層ビルは「100m」になったのか?

皇居外苑から丸の内の超高層ビル群を眺めると、高さ100mから200m級のビルに囲まれて窮屈そうに収まっているレンガ色の建物がある。

高さ99.7m(約100m)、25階建ての東京海上ビルだ。

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丸の内のスカイライン(中央のレンガ色のビルが東京海上ビル)

東京海上ビルの完成は1974(昭和49)年。だが、計画自体はその10年ほど前から検討されていた。当初の計画では、建物の高さは100mではなく、128m、30階建てだった。

計画当時、日本国内に100mを超える高層ビルは存在していなかった。しかも、場所が皇居の濠端だったため、東京海上ビルの超高層化は、皇居の美観を損ねるとして問題にされた。いわゆる「丸の内美観論争」である。

美観論争を経て、東京海上ビルは高さを減らして100mで完成。その後、大手町、丸の内で濠端に面する敷地では、不文律のように高さ100mのビルが建っていくことになる。

それではなぜ、128mから100mになったのか、また誰が100mに決めたのか。長年分からないまま、もやもやした状態が続いていた(少なくとも私が目にした文献で、これに言及したものはなかった)。

ところが、最近たまたま目にした本に、「100m」に決まった経緯が書かれていたことを発見した。

今里広記「私の財界交友録:経済界半世紀の舞台裏」(サンケイ出版、1980年)の中で、丸の内美観論争についてふれられていたのである。

以下では、まず丸の内美観論争の経過を簡単に説明した上で、高さが100mに決まった理由について述べてみたい。

■丸の内美観論争の経過

1966(昭和41)年、丸の内の濠端に立つ東京海上ビルを超高層ビルに建て替える計画が公になると、マスコミ、学界、建築関連団体のみならず、国会を巻き込んで議論を呼んだ。

肯定的な意見としては、敷地内に広場を持つ超高層ビルは、都市に太陽と緑をもたらす新しい都市のシンボルになり得るといったもの。一方、否定的なものとしては、皇居や丸の内の景観に調和しない、皇居を覗き込むような高層ビルは不敬であるといった意見が示されていた。当時の佐藤栄作首相は「どうも好ましくない」と反対の立場をとった。

同じく反対の姿勢を示したのは東京都である。

建築確認申請を受けた東京都は、なかなか建築確認を下ろさず、美観地区条例をつくって規制をかけようと試みた。当時、皇居周辺には都市計画法に基づく美観地区が指定されていたが、具体的な規制はかけられていなかった。建築規制を行うには建築基準法に基づく条例を制定する必要があったため、高さ等を規制する条例をつくろうとしたのだ。

また、丸の内地区の大地主である三菱地所も東京海上ビルの超高層化に反対した。当時、「丸ノ内改造計画」(1959年)に基づき、赤煉瓦ビル街を建替えて、軒高31mで揃った大規模ビルの街並みへの更新を進めていたためである。

論争が起きて1年ほど経過した1967(昭和42)年11月、反対していた東京都が建築確認を下ろした。同年4月に都知事に就任した美濃部亮吉が建築確認を下さない合理的な理由がないと判断したことによる。既に美観地区条例案は自然消滅していた。

ただ、東京都が建築確認を下したとしても、超高層ビルの場合は建設大臣の認定がなければ着工することはできなかった。当時は日本の超高層ビルの黎明期。未知の高さを持つ建築物であるため、構造の基準がはっきりと定まっていなかった。そこで、専門家で構成される「高層建築物構造審査会」が一件ずつ安全性を確認した上で、建築基準法第38条に基づき建設大臣が認定をする形が取られていた。

当時の建設大臣は保利茂。1968(昭和43)年11月には坪川信三に替わったが、両大臣とも認定手続を進めず、事態は膠着したまま時間だけが過ぎていった。結局、反対していたのが、「直属の上司」である佐藤栄作だったために決断できなかったのである。

ところが1970(昭和45)年9月に根本龍太郎建設大臣が認定書を受領、12月に工事が着工され、1974(昭和49)年3月に東京海上ビルは完成を迎えた。

東京海上ビル建替えが計画されてから既に約10年が経過していた。そして、当初、高さ128m、30階建てであったものが、100m、25階建てに縮小されたのである。

■佐藤栄作首相への直談判

それではなぜ、128mから100mになったのか、また、誰が100mに決めたのか。

その答えが、冒頭に述べた今里広記の「私の財界交友録:経済界半世紀の舞台裏」に記されているので、それを紹介したい。

ただ、今里広記と聞いても、ピンとこない人が多いかもしれない。

今里は、日本精工の社長を務めた実業家であり、何より日本の財界に幅広い人脈を持っていた。何かしら問題が起こると調整役として担ぎ出されるほど、財界から厚い信頼を受けていた。

超高層ビルに限ってもみても、財界主導で進められた世界貿易センタービルとサンシャイン60の建設には今里が多大な役割を果たしている(これらについては別の機会に記したい)。

丸の内美観論争が起きた際も、その信頼の厚さゆえに東京海上火災から調整を依頼された。今里は、美観論争が収束するまでの流れを知る立場にあったわけである。

 

今里は、まず高層ビルに反対の立場をとっていた佐藤栄作に直談判した。

総理は、「天皇陛下のお住まいをのぞくわけにはいかないからね」と従来の答えがそのまま、はね返ってきた。
「じゃあ、ひと足先にできているホテルニューオータニはどうなんですか。あそこからも、皇居はよく望めますよ」
負けずに、私も反論していった。 (今里広記「私の財界交友録」)

ホテル・ニューオータニは、1964(昭和39)年の東京オリンピックにあわせて、紀尾井町に建設された高さ72m、17階建ての高層ビルだ。当時、ビルとしては日本一の高さを誇っていた。

今里の反論に、佐藤栄作はこう返した。

「オータニは今里君、裏口じゃあないか。丸の内の東京海上とは違うからね・・・・・・・」
何と、ホテルニューオータニは皇居から見て、裏口だからという論法である。私はふきだしたくなったが、そこはじっと我慢して、「総理、お言葉を返すようですが、どっちが正面で裏口かは決まっているものでもないと思いますが・・・・・」とやり返したが佐藤首相は憮然としたままであった。(同)

■「100m」の理由:川島私案

今里は、認定の権限を持つ建設大臣にも直接アプローチし、佐藤栄作の説得を依頼した。

だが、保利茂も、続く坪川信三も佐藤を説き伏せることができなかった。そこで、白羽の矢が立てられたのが、自民党副総裁の川島正次郎だった。党のご意見番である川島は、佐藤栄作が首相になったときに大きな功績があったことでも知られる。佐藤を説得できるのは川島しかいないとの判断が働いたのだろう。

しばらくすると、川島が「私案」を携えて今里のもとを訪れた。この「川島私案」が、東京海上ビルを巡る丸の内美観論争の解決策となる。

それは、32階建を25階建にすれば、佐藤栄作を説得できるというものだった。

佐藤は、「東京海上ビルもホテル・ニューオータニと同じ十七階にするのなら構わない」と周囲にもらしていた。そこで川島は一計を案じた。

「東京海上の三十二階、佐藤首相の十七階―これを足して二で割ると、二十五階になるではないか。これで双方とも円くおさまる」(同)

ただ、ここで注意する必要がある。東京海上ビルの当初案は、32階ではなく、30階である。30階と17階を足して2で割ると、24階となる。実際に建ったビルは25階だ。

しかし、階数ではなく地上高さを見ると、東京海上ビルが128m、ホテル・ニューオータニが72m。足して2で割ると、ちょうど100mとなる。

そして、東京海上サイドは高さ100mに計画を変更して構造確定申請書を東京都に提出。すぐに建設省に回り、認定が下りた。

川島私案によって事はあっさりと進展した。

■不文律となった「100m」

東京海上ビルは1974(昭和49)年3月に竣工。その後、濠端には、示し合わせたかのように100mの超高層ビルが次々と建てられた。

サンワ東京ビル(1973年、高さ99.7m)、大洋漁業ビル(1978年、高さ99.95m)、三井物産本社ビル(1976年、高さ100m)など、100mは不文律として機能していった。

その後、大手町・丸の内・有楽町地区では、自主的な街のルールである「ゆるやかなガイドライン」が1998(平成10)年2月に策定され、その中にスカイラインの考え方が示された。

基本的に皇居を中心にすり鉢状のスカイラインを描くというもので、濠に面した部分は約100m程度、皇居から離れるほど高くなり、150mから200mまで可能とされた。この内容は、2000(平成12)年8月に策定された「大手町・丸の内・有楽町地区まちづくりガイドライン」に継承され、現在に至る(ガイドラインはその後改訂され、最新版は2014年に公表)。

皇居濠端の高さ100m基準は、いまや地域のルールとして共有されている。

だが、その数値に明確な根拠はない。景観工学や都市計画的な観点から決められたわけではなく、「足して2で割る」という政治的な決着で生まれたのである。

もちろん根拠が明確でなければ意味がないというわけではない。根拠が不明確でも、長い時間をかけて規範として共有されることもあるからだ。

しかし、この件に限らないが、現在使われている基準を金科玉条のように扱うことにはやや違和感がある。今ある基準をアンタッチャブルな前提とするのではなく、規制値が定められた経緯や理由を知った上で、その意味や必要性を吟味することが求められるのではないか。法制度や規制の歴史を研究する意義もそこにあると考えている。

 

<参考文献>

今里広記(1980)『私の財界交友録:経済界半世紀の舞台裏』サンケイ出版

大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり懇談会(2014)『大手町・丸の内・有楽町地区まちづくりガイドライン2014』

 

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GINZA SIXがもたらした新たな眺め ~「屋根」がつくる景観~

 

■GINZA SIXの屋上庭園

2017年4月20日、銀座松坂屋の跡地に新たな複合商業施設「GINZA SIX(ギンザシックス)」が誕生した。
高さは56m。超高層ビルラッシュの東京の中では、控え目な高さである。

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写真1 GINZA SIX

当初、この開発は高さ190mの超高層ビルでの建替えが予定されていた。

ところが「銀座に超高層ビルはいらない」と地元が反発。いわゆる「銀座ルール」の上限である高さ56mで建設された 1)。超高層ビルを必要としないまちづくりこそが、銀座の価値を高めると地元は判断したわけだ。

こうしてGINZA SIXは、超高層ビルに頼らない銀座の景観に色を添えることになる。

「銀ブラ」の言葉に代表されるように、銀座の景観は、歩道から見た街並みを指すことが多い。だが、GINZA SIXは新たな視点を銀座にもたらした。

それは、高所から見下ろす屋根(屋上)への眺めである。

もちろんこれまでにも、高所から眺められる場所はあったかもしれない。しかし、銀座通りだけでなく、銀座の全方位にわたって周囲への眺めを意識させたのは、GINZA SIXが最初ではないか。

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写真2 GINZA SIXの屋上庭園

■屋根の景観

では、銀座の屋根の景観とは何か?

GINZA SIXの屋上庭園は、誰でも入れる広場となっている 2)。屋上を一周する展望廻廊からは、ビルの周囲を360度眺めることができる。

西に面する銀座通りを見下ろせば、買い物を楽しむ人の多さに眼を奪われる。北に目を向ければ東京スカイツリー、南に東京タワーと、東京の二大ランドマークを遠望できる。

しかし、この廻廊をぐるっと回ってみて気になったことは、銀座通りでもスカイツリーでもない。

眼下に広がるビルの屋上だ。

銀座ルールによって、近隣にGINZA SIXより高い建物はない。周りのビルの屋上には、空調の室外機や看板の鉄骨などが、むき出しのままさらされている。

墓石のように、所狭しと屋上に並ぶ室外機の数には圧倒される。

これがGINZA SIXの屋上庭園から見える屋根の景観である。

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写真3 周囲のビルの屋上

■屋根の景観が目立つ理由

だが、ビルの屋上への眺めといわれても、周囲のビルの所有者は困惑するだけだろう。

そもそもビルの屋根・屋上は、見られることを前提としていない。いわば、ビルの屋上は「無意識の景観」ともいえる。

であるがゆえに、その無防備な風景を目の当たりにすると、見てはいけないものを見てしまったような罪悪感を覚えてしまう(だらしない格好のまま外出している知人を偶然目の当たりにしてしまったような気まずさ?)。

超高層ビルや東京スカイツリー等の展望台であれば、眼下の建物ははるか下。個別の建物をあまり意識することはない。

一方、GINZA SIXの屋上はとりわけ高いわけではなく、周囲のビルとの距離が近い(高低差が小さい)ために、ことさら屋上が目についてしまうのだろう。

■屋根の景観をどう考えるか?

銀座の屋根の景観をどうするのか。GINZA SIXは新たな問題提起をしたのではないか。

東京らしい混沌とした風景として楽しむことも一興だろう。もしかすると外国人観光客の受けはいいのかもしれない。

とはいえ、銀座としてそれでよいのだろうかとも思ってしまう。屋上の設備を集約化し、空いた部分に緑を植えることで、銀座全体を空中庭園のようにしつらえてもよいだろう。

いずれにせよ、屋上広告・工作物も含めて、屋根のあり方を検討する余地があるのではないか(何事も動きの早い銀座のことだから、既に考えているのかもしれないが)。

【注】
1)GINZA SIXの開発経緯と銀座ルールについては、竹沢えり子「銀座にはなぜ超高層ビルがないのか: まちがつくった地域のルール 」(平凡社新書、2013年)に詳しい。銀座のまちづくりの全貌を理解できる良書。
2)GINZA SIXは、都市再生特別地区(都市計画法、都市再生特別措置法)の指定によって容積率の緩和を受けているが、屋上庭園を一般に公開することが容積割増の要件の一つとなっている。

「高さ」から見た広島の新サッカースタジアム問題

広島市でサッカー専用スタジアムの建設が計画されているが、その場所がなかなか決まらない。

新スタジアムを利用することになるJリーグのサンフレッチェ広島は、市中心部の広島市民球場跡地を要望しているが、広島県、広島市、商工会議所は、市南部に位置する「広島みなと公園」で建設を進めたいようだ。

利便性を考えれば、市中心部から7km離れた「広島みなと公園」ではなく、繁華街に近い市民球場跡地の方が適切であろう。

そもそも、サンフレッチェ広島のホームスタジアムである「エディオンスタジアム広島(広島ビッグアーチ)」のアクセスが悪いことも、新スタジアム建設の機運が高まった一因になっているのだ。

□広島市民球場跡地案が難しい理由

ところが、行政側は市民球場跡地案に難色を示している。どうやら、さまざまな開発利権が絡んでいるようであるが、正確なことは知りようもないので、この点にはふれない。

行政側が作成した「サッカースタジアムに係る事業の実現可能性調査」によると、市民球場跡地案の問題点の一つが、建築物の高さ制限に対応するために事業費がかさんでしまうことであるようだ。

仮に国際大会を誘致するために必要な3万人規模のスタジアムをつくろうとすると、市民球場跡地の周辺でかけられている高さ制限がネックとなる。高さ制限を満たすためには、地面を掘り込んで、地上に出る部分をできるだけ低く抑える必要が出てくるわけだ。

その掘り込み費用に99.4億円かかり、総建設費が約260億円に跳ね上がるという。広島みなと公園案での建設費が約180億円であるから、80億ほど高くなる計算だ。なお、今年完成したガンバ大阪の本拠地「吹田スタジアム」の総建設費140億円と比べると、ほぼ倍である。

ここで気になることが2点ある。

市民球場跡地でのスタジアム建設の障壁の一つになっているという建築物の高さ制限とは何か。もう一つは、掘り込む作業に100億円もの費用がかかるのだろうかという点である。

□広島市の高さ制限とは?

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市民球場跡地の南側に、原爆犠牲者を鎮魂する平和記念公園が位置する。公園内には被爆や平和のシンボルともいえる原爆ドームがあり、1996年にユネスコの世界文化遺産に登録された。

世界遺産に登録されると、登録資産である原爆ドームの保存はもちろん、その周辺環境(バッファー・ゾーン=緩衝地帯)も守ることが求められる。原爆ドームのバッファー・ゾーンは、平和記念公園の周辺約50mまでが指定されており、その中に市民球場跡地の一部も含まれる。

このバーファー・ゾーンに、市民球場跡地一帯を加えたエリアで、前述の高さ制限が指定されている。市が策定した「景観法に基づく届出等に係る事前協議制度に関する取扱要綱」を根拠とするものだ(1)。

高さ制限は、20m、25m、37.5m、50mの4種類。市民球場跡地には、20mと25mの制限がかけられている。

跡地は原爆ドームに近接しているため、その高さ25mを超えないように制限し、シンボルである原爆ドームを際立たせようとしているわけである。

世界遺産を中心とする景観は、広島市だけでなく、世界にとっての大きな共有財産である。その財産を守るための制限は、必要なものといえるだろう(2)。

 

原爆ドーム周辺高さ制限図
平和記念公園周辺の高さ制限図(出典:広島市資料)

 

□高さ制限はスタジアム建設を妨げるのか?:マインツ・コファス・アレーナの例

それでは、25mという高さ制限は、スタジアム建設の支障になるのだろうか。

行政側が示した市民球場跡地でつくった場合のスタジアム案の地上高さは25m。高さ制限の範囲内に抑えられている。その分、7.3m掘り込むことで、3万人の規模を確保している。その掘り込み費用が約100億円と試算されていることは先に述べた。

この100億円という額は妥当なものなのか。

海外の事例ではあるが、ドイツ・ブンデスリーガのマインツの本拠地、コファス・アレーナ(Coface arena)を紹介したい。

改めて説明するまでもないと思うが、マインツは、昨年まで岡崎慎司が所属し、現在は武藤嘉紀が主力選手として活躍していることで知られる。

コファス・アレーナは、2011年に完成したサッカー専用スタジアムである。収容人数は3万4千人。広島が想定する規模よりやや大きいが、ほぼ同程度だ。スタジアムの一部を掘り込んでいるために、地上高さは30mに抑えられている。

昨年、現地に行ったのだが、スタジアムの中は高さ(深さ)を感じるものの、外から見ると圧迫感は少ない。

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ここで注目したいのが、建設費用だ。

コファス・アレーナの建設費は6000万ユーロ。1ユーロ120円で換算すると約72億円となる。当然ながら掘り込むための費用も含まれる。

もちろん、コファス・アレーナと広島を単純には比較できないだろう。例えば、コファス・アレーナと異なり、市民球場跡地は既成市街地の中にある。それゆえ、地中埋設物の移設・撤去等の費用を要するだろうし、河川沿いにあるために地盤も緩く、基礎工事費用がかさむのかもしれない。

様々な検討を重ねた上での100億円なのだろう。だが、コファス・アレーナの例を見てしまうと、さすがに100億円は高すぎるのではないかと感じてしまう。何とか安くする工夫の余地はないのだろうか。

 

一人のJリーグサポーターとしては、もし掘り込む費用に100億円もかからず、費用面の問題が解決可能であれば、市民球場跡地での建設を望む。景観にも配慮したスタジアムは、平和記念公園一帯の価値向上にも寄与するに違いない。

「サッカー観戦」とは、試合を見ることだけではなく、スタジアムやそれを取り巻く街全体を体感することでもある。都市の中心部にスタジアムがあることは、サッカー観戦の満足度を飛躍的に高めてくれるだろう。

市民球場跡地にスタジアムがつくられれば、今後計画される全国のサッカー専用スタジアムの立地に大きな影響を与えるはずだ。

言い過ぎかもしれないが、この広島の新スタジアム問題は、Jリーグの未来もかかっているのである。

【注】

(1)この要綱は、もともと1995年に「原爆ドーム及び平和記念公園周辺建築物等美観形成要綱」として策定された。なお、要綱に高さ制限が追加されたのは2006年。マンション問題を契機に実施されることになった。

(2) この高さ制限は、「要綱」である。つまり、法的根拠がなく、強制力はない。あくまで行政が事業者等に基準の遵守を「お願い」するだけのものである。本来であれば、景観法に基づく景観計画や景観地区、都市計画法に基づく高度地区といった法的手法で担保すべきであるが、高さ制限のような権利制限が強い規制の場合、地権者間の合意形成が難しい。かつて、市は要綱の高さ制限を景観計画に移行させようとしたが、地元地権者の反対が強く、案を白紙撤回したとの経緯がある。

【参考資料】

・サッカースタジアム実務者検証作業部会(広島県、広島市、広島商工会議所)「サッカースタジアムに係る事業の実現可能性調査」2016年4月20日

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1460547263945/simple/jitugenkanousei.pdf

・藤江直人「どうなる広島の新スタジアム問題」2016年4月24日 ※問題点が簡潔に整理されていて大変参考になる。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160423-00000001-wordleafs-socc

・コファス・アレーナに関する各種ホームページ

http://www.worldfootball.net/venues/coface-arena-mainz/1/

http://www.gvg-mainz.de/stadion/ (ドイツ語)

世界遺産サンクト・ペテルブルクにおける超高層ビル論争 ~国家的プロジェクトと景観問題~

今回は、ロシアの古都サンクト・ペテルブルクで起きた超高層ビル論争を紹介したい。

サンクト・ペテルブルクは世界遺産に登録された歴史都市である。

その近接地に高さ396mの超高層ビルが計画され、歴史的景観にそぐわないとして問題となった。

しかし、この超高層ビルは、プーチンやメドベージェフといった新旧大統領が大きく関わる政府系企業・ガスプロムネフチの本社ビルとして計画された。いわば「国家プロジェクト」としての超高層ビル開発だったために問題は複雑となった。

以下で、その経緯や問題の論点を見ていきたい。

■サンクト・ペテルブルクの歴史地区と世界遺産登録

サンクト・ペテルブルクは18世紀初頭から1917年のロシア革命まで、ロシア帝国の首都であった。
ソ連時代にレニングラードと改称されたが、ソ連崩壊後の1991年に元の名前に戻された。

市中心部の歴史地区には、ピョートル大帝(位1682~1725年)がイタリアなどの建築家を招いてつくった宮殿や教会等の壮麗な建築物群が残されている。

その歴史的な価値が認められ、1990年には世界遺産に登録された。

地区内の景観を保全するため、地区内の建物は、世界三大美術館の一つ、エルミタージュ美術館(冬の宮殿)の高さを超えないように規制されている。

その結果、歴史地区では整然とした街並みが保たれているのである。

■政府系企業による高さ396mの超高層ビル開発

2006年、その歴史地区の景観を大きく揺るがす超高層ビルの計画が明らかとなった。

ロシアの政府系天然ガス企業「ガスプロム」がサンクト・ペテルブルク市と共同で高さ396mの「ガスプロム・シティ」の建設を発表したのである。

当時、ガスプロムは、世界的な石油・天然ガス価格の高騰によって業績を拡大させていた。

その傘下企業、ガスプロムネフチの本社機能ビルとして計画されたのが、この超高層ビルだった。

サンクト・ペテルブルクは、ウラジミール・プーチン大統領の出身地である。そのため、このビルは「プーチン・タワー」とも揶揄されることとなる。

市の全額負担による建設への反発

建設計画が明らかになると、建設費用の捻出方法が問題視される。

サンクト・ペテルブルク市が建設費用を全額拠出し、完成後、ガスプロムネフチの所有になると発表されたため、世論の不評を買った。

市としてみれば、国内有数の企業を受け入れることで、税収の増加や再開発による経済効果を見込んだのだろう。

しかし、市の財源を一企業のために利用することへの反発は大きかった。

そこで、2007年6月、市の全額出資ではなく、ガスプロムネフチが51%、市が49%と変更された。

さらに、プロジェクトの名称も、一企業を名に冠するのではなく、「ガスプロム・シティ」から開発予定地の地区名である「オフタ・センター」へと変更されることとなった。

高層ビルが与える歴史的景観への影響

だが、問題はそれだけにとどまらなかった。

計画区域が世界遺産の歴史地区に隣接しており、高層ビルが歴史的景観に与える影響が懸念されたのである。

市内の高い建物といえば、ペトル・パウェル大聖堂(122.5m)や聖イサク聖堂(101.5m)などの歴史的建造物のほか、ソ連時代の1966年に建設されたサンクト・ペテルブルク・テレビ塔(高さ310m)くらいしかなかった。

このことからも、396mのオフタ・センターの大きさがわかるだろう。

さらに、ビルの高さだけでなく、場所も問題視された。

オフタ・センターは中心部からは約5キロ離れているものの、ネヴァ川を挟んで歴史地区に接している。

しかも、ロシア革命時に武装蜂起の作戦本部が設置された「スモーリヌイ」の対岸に位置していた。

象徴的な場所に隣接していたことが、反発をより助長したのである。

■ユネスコによる警告と高さ制限の強化

世界遺産登録を行ったユネスコは、高層ビル計画が歴史地区に隣接していることを懸念した。

そこで、2007年にバルボサ・ユネスコ事務局次長が、オフタ・センターの計画を進めるのであれば危機遺産リストへの登録も辞さないと警告した。

また、2009年3月には市議会が建設予定地周辺に高さ100mの高さ制限をかけた。

この数値は、歴史地区のシンボルの一つである聖イサク大聖堂(高さ101.5m)の高さを超える建物を認めないことを意味する。

■一転、建築許可へ:プーチン、メドヴェージェフの庇護を受けた「国家プロジェクト」

ところが、同年9月、市の土地利用・建設委員会が、例外的に高さ403mまで認める決定を行い、翌10月にはマトビエンコ市長が建築を許可した。

当初の高さは396mであったことから、最終的に高さが17m上乗せされたことになる。

許可にあたって市側は、タワーは市中心部から離れた世界遺産区域外であるために景観上の影響は少なく、市の発展に必要な開発であると主張した。

なお、計画を許可したマトビエンコ市長はプーチンのKGB人脈に連なる人物である。

2008年に大統領に就任したドミートリー・メドヴェージェフも、プーチン同様にサンクト・ペテルブルク出身で、さらにプーチン大統領時代(一期目)にガスプロムの会長を務めたこともあった。

つまり、オフタ・センターはプーチン、メドベージェフといった強力な権力者の庇護のもとで推進されていた国家的プロジェクトだったのである。

■世論の反発とユネスコの勧告

しかし、世論を無視して高さ制限の緩和が強引に進められたことが一層の批判を呼ぶことになる。

まず、ロシアのアレクサンドル・アヴデーエフ文化相が、市長の建築許可を違法としたロシア文化財保護監督局の決定をサンクト・ペテルブルク検察に送付した。

同じ頃、建設に反対する市民約3000人が抗議デモを行い、世論調査でも建設反対が66%と全体の3分の2を占めた(賛成は20%)。

また、ユネスコもオフタ・センターの建設中断と代替地の検討を勧告する決議を行った。

■オフタ・センター開発地の移転決定、高さが463mへ

こうした反発を受け、開発の動きに変化が生まれる。

2010年10月、当時のメドヴェージェフ大統領が「スモーリヌイの隣に建てる必要はあるのか」と開発場所に疑問を呈し、さらに、ユネスコとの協議が完了してから建設を開始すべきとの見解を示した。

この発言が影響したのか、12月には、マトビエンコ市長がオフタ・センターの建設地を移転させることでガスプロムと合意したと発表した。

この計画変更については、市民や国際社会との対話協調路線を志向するネドベージェフが大統領になったからこそ実現したとの見方がある一方、2012年の大統領選に向けたパフォーマンスと捉える意見も少なくなかった。

その後、建設予定地が、市西部のフィランド湾沿いに面したプリモルスカヤ地区ラフタ(14ha)に変更、2012年8月に市当局によって建設の許可が下ろされた(同年5月にプーチンが大統領に就任(二期目))。

移転地はサンクト・ペテルブルクの中心部から約9キロ離れているが、移転に併せて高さが60m上積みされて463mとなった。

この計画地の移転や高さの変更に関して議論が尽くされていないことへの批判も見られ、景観論争は未だくすぶったままとなっている。

このサンクト・ペテルブルクの景観論争は、世界遺産に登録されたからといって、国がその歴史的環境を守ってくれるとは限らないことを示している。

その意味で、このケースは、神宮外苑の風致地区における新国立競技場の建設問題と類似しているかもしれない。

<参考資料>

オフタセンター公式ホームページ  http://www.ohta-center.ru/en/ ※リンク切れ

服部倫卓(2011)「ガスプロムとペテルブルグの特殊な関係」『ロシアNIS調査月報56(4)』

毎日新聞東京朝刊2007年6月12日「古都に「ガスプロム」巨大タワー計画 揺れる世界遺産の街」

読売新聞2008年10月28日「[明日へ]世界遺産を守る(6)再開発と歴史の調和を」(東京夕刊)

朝日新聞 2009年10月12日 「400メートルのビル計画、世界遺産のロシア古都大揺れ」

共同通信 2009年10月10日「超高層ビル承認で論争、ロシア 世界遺産のサンクト市」

時事通信 2009年10月11日「高層ビル計画に抗議デモ=世界遺産が危機-サンクトペテルブルク」

東京新聞 2009年12月27日「 『プーチン・タワー』計画 揺れる古都 市民反発 市は強硬姿勢」

時事通信 2010年12月10日「摩天楼建設場所の変更決定=景観に懸念-サンクトペテルブルク」

読売新聞2010年12月14日「超高層ビル「やっぱりダメ」 サンクトペテルブルク市長」(東京朝刊)

御堂筋「摩天楼」計画(毎日新聞)

※毎日新聞2013年07月19日大阪朝刊の「論ステーション」に掲載されたインタビューを以下に再掲します。

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毎日新聞2013年07月19日大阪朝刊<オピニオン opinion>

大阪の「顔」とも言われる御堂筋沿いのビルの高さ規制を大幅に緩和する手続きが進められている。老朽化したビルの建て替えを促し、街の活性化を図る狙いだが、風格のある景観が乱れ、魅力が薄らぐと心配する声も強い。都市景観の研究者と、地元で街づくりの提言を続けてきたNPO代表に話を聞いた。

◇比類なき美、100年の計で−−東京工業大助教・大澤昭彦さん(景観・都市計画)

御堂筋の景観は70年以上かけて築き上げられてきた。1937年の道路完成以来、幅44メートルの道路に4列のイチョウ並木、沿道に建ち並ぶ100尺(31メートル)のビル群が、風格ある御堂筋の基調となる景観を成してきた。95年に31メートルの高さ規制が緩和されたものの超高層ビルは御堂筋にふさわしくないとして50メートルに落ち着いた。高度成長期やバブル期にもあえて超高層化を認めなかったのは、道幅と高さのバランスが取れた景観に固有の価値があるとの考えからだ。御堂筋の景観は大阪市と民間の不断の努力によって築かれてきた公共財であり、大阪の歴史的、文化的な厚みを象徴する存在だ。

それが今、超高層化へかじを切ろうとしている。しかし、この緩和路線は、御堂筋が培ってきた歴史的、文化的蓄積を放棄し、大阪の「顔」を失うことにつながるのではないかと強く懸念している。現在の大阪の経済力から見ると、超高層に建て替わるのは、経済的条件の整った数棟にとどまり、結果的に分断されたスカイライン(空に接する輪郭)だけが残ることになりかねない。そうなれば、どこにでもある奥行きも深みもない都心の一つに成り下がってしまう。

現在のスカイラインは50メートルにそろっていないから景観保全の体をなしていないという意見もあるが、これは95年の規制変更のためで、31メートルと50メートルのラインが混在しているのはむしろ当然だ。街づくりは50年、100年かけて行うものであり、20年足らずでそろうのは無理な話だ。御堂筋は道路の幅員と壁面後退の幅を足すと52メートル。沿道の建物の高さを50メートルに整えると、道幅と高さのバランスが取れて美しい。年月をかけて50メートルのラインをつくることに意味がある。

比較的広い道路で、高さに制限を加えた沿道建物が一体となった街路景観といえば、東京の表参道や銀座がある。御堂筋はこうした通りと比べても風格があり、全国的に見ても非常に価値のある街路景観と言えるだろう。

世界一の観光客数を誇るパリの美しい街並みは19世紀の大改造でその骨格が完成した。1960年代の規制緩和により、一部区域で超高層を認めた結果、73年に210メートルのモンパルナスタワーが完成した。これが街の景観を損なったと市民の反発を招き、一転して高さ規制が強化され、市内の再開発は最大37メートルに制限された。近年、再び規制緩和されたが、あくまで中心部の景観への影響が少ない市外周部の一部に限定している。

大阪では大阪駅や天王寺周辺で超高層ビル開発が活発だ。このため、相対的に御堂筋の価値が下がっているように見えるのかもしれない。だが、御堂筋は御堂筋らしさを強調することが他地区との差別化につながる。オフィス需要が限られる中、高層化を図る場所と高さを抑える場所のメリハリを持たせる方が、大阪全体の持続的な発展に寄与するだろう。

フランスの作家、ビクトル・ユゴーはこんな言葉を残している。「一つの建物には二つの要件がある。建物の効用と、建物の美しさである。効用は建物の所有者に帰属するが、建物の美しさはすべての人に帰属する」。先人が築き上げてきた歴史をいかに継承するかという方向で議論が進むことを期待したい。【聞き手 論説委員・藤田悟】

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◆御堂筋沿道の高さ規制

御堂筋(大阪市北区−中央区、約4キロ)は1937(昭和12)年、幅44メートルへの拡張工事が完成し、ほぼ現在の姿になった。沿道の建物の高さは法律で100尺(31メートル)に規制され、69年の法改正で高さ規制が撤廃されて容積制に変わった後も、大阪市は淀屋橋−本町間について景観保全を目的に行政指導で31メートル規制を続けた。95年には歩道に面した部分は高さ50メートルに、上層部分を歩道から10メートル以上後退させた場合は高さ60メートルまで緩和した。街の活性化を掲げる橋下徹市長が検討を指示したのを受け、市都市計画審議会の専門部会は今年3月、60メートル規制を撤廃し、上層部分の後退幅に応じて最高140メートルまで可能となる規制緩和の最終案をまとめた。2013年度中に市要綱や条例の改正手続きに入る。

<関連ページ>

御堂筋沿道 高さ制限緩和への疑義

御堂筋における高さ制限の変遷(季刊土地総合研究2012年春号)

 

御堂筋沿道 高さ制限緩和への疑義

2013(平成25)年3月、大阪市都市計画審議会専門部会が、御堂筋沿道で実施されている軒高50m(最大で60m)制限の緩和を容認した。

今後、市は緩和に向けた手続きを進め、2013年度中に改正を予定しているという。

現在示された案では、最大で60mに抑えられていた高さ制限を緩和し、最大で140mまで建設可能とすることが検討されている(朝日新聞2013年3月20日付。「御堂筋沿い、高さ規制撤廃 大阪市、13年度に条例改正」)

この動きは、2012年1月に橋下市長が高さ制限の撤廃に言及したことに端を発するものだが、1年の時を経て、高さ制限の緩和の具体案が出てきたわけである。

私は、御堂筋における高さ制限の歴史的経緯や現在の大阪のオフィス需要などから見ても、高さ制限緩和には反対である。

なにより、今回の緩和には全くの理念もビジョンも感じられない。理念なき都市政策が経済性のみに立脚せざるを得ないのは必然である。「規制緩和による活性化」は理念ではなく、都市政策の放棄にすぎない。

以下では、高さ制限緩和賛成論に対する私なりの反論を記したいと思う。

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□「既に沿道のスカイラインはバラバラではないか」との意見に対する反論

1995(平成7)年に高さ制限を31mから50mに緩和したために、確かに31mと50mのラインが混在している。

しかし、現在の姿は、50mのスカイラインの創出に向けた過渡期であるのだからバラバラであるのはむしろ当然である。

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言うまでもないことだが、街は一朝一夕につくられるものではない。

50mのラインで整えようと市が決断したのは、わずか18年前のことである。

現在スカイラインは揃っていないものの、着実に新たなスカイラインの形成に向けて進んでいる。

そのさなかに緩和をしてしまっては、18年前の大きな決断を無駄にすることになるのではないか。

現在の案では中層部の50mのラインは守ると言っているが、高層部が突出してくれば現在の空が遮られることは避けられない。

都心でこれほど広くまとまりのある空を見ることができるのは御堂筋くらいのものだ。

今回の案の策定に際して、どれほど景観への影響を検証したのかも疑問である。

淀屋橋odonaがつくられる際には、70mまでであれば景観への影響が少ない、と市は都市計画審議会の中で説明をしていた。だが、それが140mになれば、その影響は推して知るべしである。

□「既に60mを超える高層ビルも立っているではないか」との意見に対する反論

確かに、淀屋橋で最高高さ70m、本町には140mの高層ビルが建っている。

この二つの再開発は、いずれも小泉政権下の都市再生の動きが背景にあり、都市再生特別措置法に基づく都市再生特別地区を活用したものである。

しかし、御堂筋全体で都市再生特区の活用を容認したわけではなかった。

2006(平成18)年に、新しい時代の御堂筋協議会が「御堂筋活性化アクションプラン中間とりまとめ」を作成した。

中間とりまとめの中で、淀屋橋や本町の交差点付近を「賑わい拠点ゾーン」に位置付け、そのエリアのみについて高さを緩和するとの方針を示されたのである。

その結果として建設されたのが、淀屋橋odonaであり、本町ガーデンシティ(セントレジスホテル大阪)だ。

つまり、拠点以外の場所では従来のルール(軒高50mが、最高60m)が継続されることとなったわけである。

もちろん、そもそもこの方針自体、望ましいものだったのかは議論の余地はあるだろう。

ただ、少なくとも、拠点エリアとそれ以外での仕分けをし、メリハリのある規制によって保全と開発のバランスを図ろうという意図は理解できなくはない。

しかし、今回の緩和は、そうしたメリハリも一切無視した「なし崩し的な緩和」と捉えられても仕方がないのではないか。

厳格な高さ制限で知られるパリにおいても、近年、地価の高騰やオフィス・住宅不足を背景に高さ制限が部分的に緩和された。

とはいえ、緩和されたのは、市縁辺部で景観への影響が少ない場所(全6か所)に限定されており、しかも、超高層ビルはそれぞれの地区一棟のみである。

守るべき場所と開発する場所のメリハリを図るのは、成熟した都市であればもはや当然の都市戦略であるはずだが、橋下市政にはそうしたものが感じられないのである。

<参考>

パリにおける高さ制限の歴史

□「指定容積率が消化できないために建替えが進まない」との意見に対する反論

容積率を全て使い切ることができないために高さ制限の撤廃が必要との意見が見られる。

しかし、そもそも1995年に31mから50mに緩和したときの議論を思い出してほしい。

当時、31mでは容積率を消化しきれないから、50m(セットバックすれば+10m)になったのである。

現状でも1000%容積率の消化は十分可能であるにも関わらず、高さ制限の撤廃を要求するのは、更なる容積緩和を求めるための方便に過ぎないのではないか。

実際に、容積率を1300%に上げることも視野に入れているらしいが、それほどの容積を与えたところでどれほどの需要があるのだろう。

大阪におけるオフィスの空室率は、大規模ビルが9.6%、中型ビルでは12.8%に及ぶ(2013年2月末時点。出典:http://www.websanko.com/officeinfo/report/pdf/market2013-03-Osaka.pdf)。

一方、東京の都心五区の空室率は、大規模ビル6.23%、中型ビル10.9%であることから、大阪のオフィス床が特に余っている状況がうかがえる(2013年3月時点。http://www.websanko.com/officeinfo/research/pdf/2013/03-tokyo_23.pdf)。

空室率が高いだけでなく、大阪では、梅田をはじめとして各所で大規模な再開発が行われている。

このような状況の中、さらに御堂筋で容積を緩和する合理的な理由があるのだろうか。

仮に東京の丸の内などと同じような高層化をしたところで、本当に御堂筋が活性化するのかも疑問である。

御堂筋は、1969(昭和44)年に法律上の高さ制限が撤廃されたときも、31mのラインを守るべきとして、行政指導で規制を継続したという歴史的経緯がある。

一方、御堂筋と同じように31m(100尺)の建物が並んでいた丸の内では、容積制導入後、高さ制限は継続されず、かなり早い時期から高層化が図られた。

このことからも、御堂筋の高さの揃った街並みに対する先人の思いや見識が理解できるであろう。

私が懸念するのは、緩和してみたものの、蓋を開けてみたら超高層に建て替わるのは数棟のみで、分断されたスカイラインが残るという無残な結果に終わることである。

現在の50mの高さの中で、1000%を消化し、沿道全体として街並みを整えると同時に、低層階に賑わい機能を設ける方が、市内の他地域との差別化になり、むしろ価値を上げることになると思うのだが。

なお、今回の緩和の動きに危機感を覚えたため、2012年春に季刊誌土地総合研究に「御堂筋における高さ制限の変遷」を寄稿した。興味のある方は是非ご覧いただきたい。

 

<2013年7月22日追記>

2013年7月19日付けの毎日新聞大阪朝刊に、御堂筋の高さ制限緩和に反対する見解を載せて頂きました。以下のURLに抜粋版を載せました。

毎日新聞「論ステーション:御堂筋「摩天楼」計画」

 

高度地区の変遷について

2012年度の都市計画学会学術研究論文発表会で、高度地区の歴史に関する論文を発表します。

タイトルは、「高度地区指定による高さ制限の変遷に関する研究」です。

 

■高度地区制度とは?

高度地区制度は、建築物の高さの最高限度や最低限度を定めることができる制度で、都市計画法・建築基準法に基づく制限手法です。

用途地域では、低層住居専用地域(高さ10m・12m)を除くと絶対高さ制限はかかっていないため、現行の用途地域を補完する役割を担っています。

この高度地区制度は、もともと1920(大正9)年に施行された市街地建築物法施行令に規定された建築物の高さの最低限度の制限に由来します。当初は、駅前等の高度利用が求められる場所での土地の有効利用や美観形成を意図して、一定以上の高さの建物を誘導する制度として始まりました。

1931(昭和6)年の施行令改正で高さの最高限度も定めることが可能となり、1938(昭和13)年の市街地建築物法改正によって、「高度地区」という名称で制度化されました。

その後、1968(昭和43)年の新都市計画法制定、1970(昭和45)年の建築基準法改正によって、現在の制度が確立され、現在では住環境や景観の保全・形成を目的として、絶対高さ制限や斜線制限を高度地区によって実施する自治体が増えています。

■論文の主旨

この論文では、1920年の制度創設から現在までの高度地区の法律上の位置づけや実際の運用がどのように変遷してきたのかを分析し、高度地区が時代によって、その目的や制限内容を変化させてきたことを明らかにしています。

論文については、下記のホームページで確認できます。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalcpij/47/3/47_211/_article/-char/ja/