世界遺産サンクト・ペテルブルクにおける超高層ビル論争 ~国家的プロジェクトと景観問題~

今回は、ロシアの古都サンクト・ペテルブルクで起きた超高層ビル論争を紹介したい。

サンクト・ペテルブルクは世界遺産に登録された歴史都市である。

その近接地に高さ396mの超高層ビルが計画され、歴史的景観にそぐわないとして問題となった。

しかし、この超高層ビルは、プーチンやメドベージェフといった新旧大統領が大きく関わる政府系企業・ガスプロムネフチの本社ビルとして計画された。いわば「国家プロジェクト」としての超高層ビル開発だったために問題は複雑となった。

以下で、その経緯や問題の論点を見ていきたい。

■サンクト・ペテルブルクの歴史地区と世界遺産登録

サンクト・ペテルブルクは18世紀初頭から1917年のロシア革命まで、ロシア帝国の首都であった。
ソ連時代にレニングラードと改称されたが、ソ連崩壊後の1991年に元の名前に戻された。

市中心部の歴史地区には、ピョートル大帝(位1682~1725年)がイタリアなどの建築家を招いてつくった宮殿や教会等の壮麗な建築物群が残されている。

その歴史的な価値が認められ、1990年には世界遺産に登録された。

地区内の景観を保全するため、地区内の建物は、世界三大美術館の一つ、エルミタージュ美術館(冬の宮殿)の高さを超えないように規制されている。

その結果、歴史地区では整然とした街並みが保たれているのである。

■政府系企業による高さ396mの超高層ビル開発

2006年、その歴史地区の景観を大きく揺るがす超高層ビルの計画が明らかとなった。

ロシアの政府系天然ガス企業「ガスプロム」がサンクト・ペテルブルク市と共同で高さ396mの「ガスプロム・シティ」の建設を発表したのである。

当時、ガスプロムは、世界的な石油・天然ガス価格の高騰によって業績を拡大させていた。

その傘下企業、ガスプロムネフチの本社機能ビルとして計画されたのが、この超高層ビルだった。

サンクト・ペテルブルクは、ウラジミール・プーチン大統領の出身地である。そのため、このビルは「プーチン・タワー」とも揶揄されることとなる。

市の全額負担による建設への反発

建設計画が明らかになると、建設費用の捻出方法が問題視される。

サンクト・ペテルブルク市が建設費用を全額拠出し、完成後、ガスプロムネフチの所有になると発表されたため、世論の不評を買った。

市としてみれば、国内有数の企業を受け入れることで、税収の増加や再開発による経済効果を見込んだのだろう。

しかし、市の財源を一企業のために利用することへの反発は大きかった。

そこで、2007年6月、市の全額出資ではなく、ガスプロムネフチが51%、市が49%と変更された。

さらに、プロジェクトの名称も、一企業を名に冠するのではなく、「ガスプロム・シティ」から開発予定地の地区名である「オフタ・センター」へと変更されることとなった。

高層ビルが与える歴史的景観への影響

だが、問題はそれだけにとどまらなかった。

計画区域が世界遺産の歴史地区に隣接しており、高層ビルが歴史的景観に与える影響が懸念されたのである。

市内の高い建物といえば、ペトル・パウェル大聖堂(122.5m)や聖イサク聖堂(101.5m)などの歴史的建造物のほか、ソ連時代の1966年に建設されたサンクト・ペテルブルク・テレビ塔(高さ310m)くらいしかなかった。

このことからも、396mのオフタ・センターの大きさがわかるだろう。

さらに、ビルの高さだけでなく、場所も問題視された。

オフタ・センターは中心部からは約5キロ離れているものの、ネヴァ川を挟んで歴史地区に接している。

しかも、ロシア革命時に武装蜂起の作戦本部が設置された「スモーリヌイ」の対岸に位置していた。

象徴的な場所に隣接していたことが、反発をより助長したのである。

■ユネスコによる警告と高さ制限の強化

世界遺産登録を行ったユネスコは、高層ビル計画が歴史地区に隣接していることを懸念した。

そこで、2007年にバルボサ・ユネスコ事務局次長が、オフタ・センターの計画を進めるのであれば危機遺産リストへの登録も辞さないと警告した。

また、2009年3月には市議会が建設予定地周辺に高さ100mの高さ制限をかけた。

この数値は、歴史地区のシンボルの一つである聖イサク大聖堂(高さ101.5m)の高さを超える建物を認めないことを意味する。

■一転、建築許可へ:プーチン、メドヴェージェフの庇護を受けた「国家プロジェクト」

ところが、同年9月、市の土地利用・建設委員会が、例外的に高さ403mまで認める決定を行い、翌10月にはマトビエンコ市長が建築を許可した。

当初の高さは396mであったことから、最終的に高さが17m上乗せされたことになる。

許可にあたって市側は、タワーは市中心部から離れた世界遺産区域外であるために景観上の影響は少なく、市の発展に必要な開発であると主張した。

なお、計画を許可したマトビエンコ市長はプーチンのKGB人脈に連なる人物である。

2008年に大統領に就任したドミートリー・メドヴェージェフも、プーチン同様にサンクト・ペテルブルク出身で、さらにプーチン大統領時代(一期目)にガスプロムの会長を務めたこともあった。

つまり、オフタ・センターはプーチン、メドベージェフといった強力な権力者の庇護のもとで推進されていた国家的プロジェクトだったのである。

■世論の反発とユネスコの勧告

しかし、世論を無視して高さ制限の緩和が強引に進められたことが一層の批判を呼ぶことになる。

まず、ロシアのアレクサンドル・アヴデーエフ文化相が、市長の建築許可を違法としたロシア文化財保護監督局の決定をサンクト・ペテルブルク検察に送付した。

同じ頃、建設に反対する市民約3000人が抗議デモを行い、世論調査でも建設反対が66%と全体の3分の2を占めた(賛成は20%)。

また、ユネスコもオフタ・センターの建設中断と代替地の検討を勧告する決議を行った。

■オフタ・センター開発地の移転決定、高さが463mへ

こうした反発を受け、開発の動きに変化が生まれる。

2010年10月、当時のメドヴェージェフ大統領が「スモーリヌイの隣に建てる必要はあるのか」と開発場所に疑問を呈し、さらに、ユネスコとの協議が完了してから建設を開始すべきとの見解を示した。

この発言が影響したのか、12月には、マトビエンコ市長がオフタ・センターの建設地を移転させることでガスプロムと合意したと発表した。

この計画変更については、市民や国際社会との対話協調路線を志向するネドベージェフが大統領になったからこそ実現したとの見方がある一方、2012年の大統領選に向けたパフォーマンスと捉える意見も少なくなかった。

その後、建設予定地が、市西部のフィランド湾沿いに面したプリモルスカヤ地区ラフタ(14ha)に変更、2012年8月に市当局によって建設の許可が下ろされた(同年5月にプーチンが大統領に就任(二期目))。

移転地はサンクト・ペテルブルクの中心部から約9キロ離れているが、移転に併せて高さが60m上積みされて463mとなった。

この計画地の移転や高さの変更に関して議論が尽くされていないことへの批判も見られ、景観論争は未だくすぶったままとなっている。

このサンクト・ペテルブルクの景観論争は、世界遺産に登録されたからといって、国がその歴史的環境を守ってくれるとは限らないことを示している。

その意味で、このケースは、神宮外苑の風致地区における新国立競技場の建設問題と類似しているかもしれない。

<参考資料>

オフタセンター公式ホームページ  http://www.ohta-center.ru/en/ ※リンク切れ

服部倫卓(2011)「ガスプロムとペテルブルグの特殊な関係」『ロシアNIS調査月報56(4)』

毎日新聞東京朝刊2007年6月12日「古都に「ガスプロム」巨大タワー計画 揺れる世界遺産の街」

読売新聞2008年10月28日「[明日へ]世界遺産を守る(6)再開発と歴史の調和を」(東京夕刊)

朝日新聞 2009年10月12日 「400メートルのビル計画、世界遺産のロシア古都大揺れ」

共同通信 2009年10月10日「超高層ビル承認で論争、ロシア 世界遺産のサンクト市」

時事通信 2009年10月11日「高層ビル計画に抗議デモ=世界遺産が危機-サンクトペテルブルク」

東京新聞 2009年12月27日「 『プーチン・タワー』計画 揺れる古都 市民反発 市は強硬姿勢」

時事通信 2010年12月10日「摩天楼建設場所の変更決定=景観に懸念-サンクトペテルブルク」

読売新聞2010年12月14日「超高層ビル「やっぱりダメ」 サンクトペテルブルク市長」(東京朝刊)

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パリにおける高さ制限の歴史

フランスのパリは厳格な高さ制限が実施されていることで知られるが、市の外周道路の拠点地域で高さ制限の緩和が検討されているという。

そこで、パリにおける高さ制限の歴史の概略とともに、今回の規制緩和の動きについて紹介する。

■19世紀以前における高さ制限(衛生環境の確保)

パリといえば石造りの重厚な街並みを想起する人が多いだろう。だが、17世紀以前は木造建築物が主であった。

しかし、木造建物は燃えやすいため、密度の高い大都市では大火の要因ともなっていた(1657(明暦3)年の明暦の大火、1666年のロンドンの大火などが知られる)。

そこで、パリでは防火を目的として、1607年の勅令で街路沿いの木骨壁の建設が禁止され建物の構造が木骨造から石造、煉瓦造へと転換していった。5階建てであったアパートの高さも、時代を経るにつれて高くなり、19世紀前半のパリでは6、7階建てが標準的で、7階建て(屋根裏階含む)が最も多かったという。

建物の構造の変化は、都市部への人口集中とあいまって建物の高層化をもたらした。

ところが、住宅の高層化は日照、採光、通風を妨げ、衛生環境を損なうことから、1783年にはパリで、1825年にはリヨンで高さ制限が実施された。

■19世紀のパリ大改造に伴う高さ制限(美観の形成)

現在のパリの街並みの骨格をつくったのが、19世紀におけるパリの大改造である。

当時のセーヌ県知事のオスマンは、パリの大改造にあたり、交通、衛生、治安、人口分散等の目的に加えて美観も重視した。

街路を「移動のための手段」としてだけではなく、「歩く人が見て楽しむ存在」につくり変えたのである。

その結果、1859年に改定された高さ制限では、美観、日照、防災等の観点から街路幅員に応じて軒高11.7m、14.6m、17.55m、20mの4種類に制限された(表1)。

大改造前の1784年から街路幅員の大きさに応じた高さ制限は既に実施されていたが、このときは、主に日照や防災が目的であった。

表1 18~19世紀におけるパリの高さ制限の変遷

幅員

1667年

1784年

1848年

1859年

1884年

7.8m未満

15.59m以下

11.69m以下

11.70m以下

11.70m以下

12m以下

7.8m以上9.75m未満

14.60m以下

14.62m以下

14.60m以下

15m以下

9.75m以上

17.55m以下

17.55m以下

17.55m以下

18m以下

20m以上

20.00m以下

20m以下

出典:鈴木(2005)を元に作成。高さは軒高。

■1960・70年代における規制緩和と強化

その後、高さ制限によりオスマン期の街並みが保全されていったが、1967年に規制緩和されたことで、高層建築物が建設可能となる。

当時、十分な空地を確保し、光と緑をもたらす高層ビルこそが、新しい都市像を提示する建築形式として、超高層ビル先進国のアメリカのみならずヨーロッパにおいても受け入れられつつあった。

しかし、1972年に高さ210m、59階建てのモンパルナスタワーが建設されると、高層ビルはパリの伝統的な都市景観が損なうとして、一転規制強化へと転じていく。

1977年の改正により、パリ中心部は最大でも37m(再開発区域)に制限され、歴史的な地区ではより厳しい規制がかけられることになった(表2)。

写真1 モンパルナスタワー(1972年竣工)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

表2 1967年(緩和時)と1977年(強化時)の高さ制限の内容

1967年

1977年

都心地域

31m

              31m

歴史的に貴重な地区15m、18m、25m

周辺地域

37m

              31m

再開発事業の計画・施行区域

               37m

      

■現在のパリにおける高さ制限

現在のパリにおける高さ制限は、①ゾーニングによる高さ制限、②街路幅員に応じた高さ制限(外枠線規制)、③眺望保全のための高さ制限(景観保護紡錘線規制。特定の視点場からの眺望保全)の3種類があり、前述のように最大でも高さ37mに制限されてきた。

その結果、高層ビルの建設は、1980年代にミッテラン大統領により推進されたデファンス地区の開発のように、郊外部(パリ市外)に限定されることになった。

■高さ制限の緩和の動き

2008年7月、パリのドラノエ市長が、市の外周道路沿いの6ヶ所に、高さ150mから200mの商業施設と高さ50mの住宅を建設する構想を示し、市議会の承認を経た。

そのうち、市南西部のポルト・ド・ヴェルサイユには、180mに及ぶ全面ガラス張りのピラミッド型オフィスビルが2012年に完成する予定であるという。

この規制緩和の背景には、都心部での高層建築物の建設が進んでいるロンドン等の大都市との都市間競争があると思われる。

また、ドラノエ市長とサルコジ大統領の主導権争いが存在しており、首都圏の構想に対して積極的に発言をしているサルコジ大統領への対抗心から、現市長が今回の規制緩和策を打ち出したとも言われている。

しかし、この規制緩和は高層ビルの建設が進んだ70年代に逆戻りするとして批判の声も多く、2004年の調査では、市民の6割が高層化に反対しているとのことである。

 

<追記:2012年7月24日>

今春、パリ市都市計画局にヒアリングしたところ、上記のアンケート調査は、一般論としてパリ市における高さ制限の緩和の是非を尋ねたもので、具体的なプロジェクトや場所を示したものではなかったために、反対が多くなったのではないかとのことである。

また、パリの規制緩和の背景には、市内の慢性的なオフィス不足等から、市外・国外への企業流出が深刻化してきたことが挙げられる(有名なデファンス再開発地区もパリ市内ではなく、市外に位置する)。

オフィス不足から、都心部のアパートがオフィスとして使用されることが増えたために、結果として住宅不足も問題となってきた。

そこで、オフィス・住宅不足を解消し、パリの国際競争力を高めるためには、質の高いオフィスを供給する必要があるとして規制緩和に踏み切ったわけである。

例えば、現在進行中のプロジェクトの一つである“Triangle(トリアングル)”では、市南西部のポルト・ドゥ・ベルサイユの見本市会場に、ヘルツォーク&ド・ムーロン設計による高さ約180m、ガラス張りの三角形状の高層ビルが計画されている。

オフィス床面積は88,400㎡。就業者数は5,000人を見込んでおり、既に市の都市計画(PLU:plan local d’urbanisme)に位置付けられている。

Triangle(トリアングル) プロジェクトの概要

その他の地区でも、外周道路沿いの鉄道用地等(100haから200ha)を中心に計画が進んでおり、レンゾ・ピアノが設計を担当する地区もあるという。

ただし、いずれのプロジェクトも開発区域がシャンゼリゼのような都心ではなく、市縁辺部の外周道路沿い(主に鉄道用地等)である点に注意する必要がある。

また、パリは毎年2900万人の観光客が訪れる世界一の観光都市であるため、高層建築物がもたらすダイナミズムは観光に対しても良い影響を与えるだろうと市は判断しているようである。

とはいえ、開発区域内に何本も高層ビルを建設することは想定していない(複数の超高層ビルが建ってしまっては、モニュメントがモニュメントたり得ないというわけだ)。

つまり、パリでは守るべき場所は厳格に規制しつつも、時代の要請に応じて、歴史的景観への影響が少ない地区での大規模開発を許容しているのである。

再開発を行うためには、都市計画(PLU)を見直す必要があるが、市議会での議論の末、このプロジェクトには公益性が認められるとして、2009年に超高層ビルを許容する都市計画に書き換えられている(緑の党以外は、全て賛成)。

再開発を行うにしても、しかるべき議論、手続きを経て行われていると言えるだろう(賛否両論があるにせよ)。

一連の再開発の話を聞いて、パリのような歴史的景観を大事にしている都市でも大々的に規制緩和に舵を切ったのかと感じる人がいるかもしれない。

しかし、決してそうではなく、守るべきところは依然として厳しい制限を継続していることに留意しなければならない。

日本においては、なし崩し的にどこでも規制緩和が進められているが、持続可能な都市づくりを進めるためには、パリのように保全と開発のメリハリをつけた都市戦略が求められるのではないだろうか。

[参考文献]

鈴木隆(2005)『パリの中庭型家屋と都市空間 : 19世紀の市街地形成』中央公論美術出版

松井道昭(1997)『フランス第二帝政下のパリ都市改造』日本経済評論社

早福千鶴(1991)「フランスにおける景観保護行政」荒秀編『景観:基本計画づくりから実際例まで』ぎょうせい

和田幸信(2007)『フランスの景観を読む:保存と規制の現代都市計画』鹿島出版会

朝日新聞2008年7月9日記事「パリに高層ビル林立?高さ規制解除へ 市民は反対多数」

西日本新聞2008年9月27日記事「パリに巨大ピラミッド? パリ市が高層ビル計画」

高層建築物に対する拒絶反応と慣れについて ―パリ・エッフェル塔を例に―

高層建築物は、技術の進歩や経済的繁栄の象徴といった肯定的な意味を持つ一方で、高さを巡る紛争に代表されるように否定的に受けとめられる場合もある。

後者の反応からは、現在の町の姿が急激に変化し、時間的な連続性が失われることへの心理的な不安を読み取ることができるだろう。

今やパリのランドマークとして親しまれているエッフェル塔であるが、建設当初は、パリのスカイラインを変化させるエッフェル塔に対して否定的な意見が少なくなかった。

そこで今回は、パリのエッフェル塔に対する人々の反応から、高層建築物に対する拒絶反応と慣れについて考えてみる。

■エッフェル塔建設の背景

高さ300mのエッフェル塔は、鉄骨造かつエレベーターを用いた最初期の高層建造物である。

土木技師であるギュスターヴ・エッフェルによる設計で、フランス革命100周年を記念して開催された1889年のパリ万国博覧会において建設された。

当時、パリ市内の建物で最も高いものは廃兵院の尖塔(105m)であり、その他にはパンテオン(79m)、ノートルダム寺院(66m)等が市内の主要な高層建築物であったことから、300mという高さが桁外れであったことがわかる。

フランスの思想家ロラン・バルトは「塔は見られているときは事物(=対象)だが、人間がのぼってしまえば今度は視線となって、ついさっきまで塔を眺めていたパリを、眼の下に拡がり集められた事物とする」と述べている。

つまり、エッフェル塔は、眺めの対象であるばかりでなく、眺めを提供する高層建造物の先駆けであり、見下ろす眺めを一般の市民が享受できるようにした点にエッフェル塔の時代的な意義があったと言えるだろう。

■エッフェル塔に対する賛否

エッフェル塔は、鉄やエレベーターといった新技術やその高さから近代の象徴、つまり芸術から産業への転換を象徴するとともに、資本主義の象徴とみなされてもいた(ただし、近代が機能の合目的性にその特徴があるとするならば、エッフェル塔は、工場やオフィスビルのような合目的的な建物ではないため、近代の建物ではないとの見解もある)。

それゆえ、エッフェル塔については賛否両論が巻き起こることになる。

①肯定的な反応

エッフェル塔は「科学と技術の応用によって自然に対する技術の優越を象徴するもの」として、多くの人々に歓迎された。

例えば、エッフェル塔を見物したエジソンは、「「偉大な構造物」が実現されたことを神に感謝した」と言われている。

また、パリを占領したヒトラーは「パリの象徴たるエッフェル塔を破壊せよ」と命令したが、結局壊されることなくパリは解放された。

そして、パリに帰還したフランス兵達がエッフェル塔を目の当たりにすると、まるで”感電したような感動に打たれた”との話が残っているという。

②否定的な反応

一方、エッフェル塔に対して嫌悪感を抱く人々も少なからず存在した。

1887年2月、47人の芸術家や文学者等の知識人が建設反対の陳情書をパリ市役所に提出し、エッフェル塔は「その野蛮な大きさによって、ノートル=ダム、サント=シャペル、サン=ジャック塔、など、わが国の建造物すべてを侮辱し、わが国の建築物をすべて矮小化して、踏み砕くに等しい」と厳しく非難したのである。

この陳情書に名を連ねていた作家のギ・ド・モーパッサンは、エッフェル塔の真下のカフェを好んだと言われるが、その理由は、唯一エッフェル塔を見なくて済む場所だからというものであった。

また、イギリスの詩人・デザイナーのウィリアム・モリスは、「パリに立ち寄るときはいつでも、エッフェル塔が見えないように塔のできるだけ近くに宿をとる」と公言したという。

こうした賛否両論が巻き起こること自体、高層建築物が一部の為政者のものではなく、一般大衆のものへと変容してきたことの証左とも解釈できる。

つまり、エッフェル塔は大衆化社会の象徴的存在でもあったといえるだろう。

■「時間的な距離」の必要性

しかし、高層建築物が与える心理的な影響は、時間の経過とともに慣れが生じ、評価に変化をもたらす場合もある。

前述のように、エッフェル塔の建設当初は知識人を中心に拒否反応があったが、いまやパリのランドマークとして欠かせない存在になっており、パリといえばエッフェル塔、エッフェル塔といえばパリというイメージの補完構造を形成するまでになっている。

1972年に建設され、パリの伝統的な景観を壊すとして物議を醸したモンパルナスタワー(高さ210m、59階建)を非難する人はいるかもしれないが、エッフェル塔を壊せという人はおそらくいないのではないだろうか(もしかすると、100年、200年後にはモンパルナスタワーも20世紀のパリを代表するランドマークとして親しまれるようになる可能性も排除できないが)。

ランドマーク全体を視野に収めるためには、ある一定の距離を置き、引いた視点から眺める必要があるのと同じように、高層建築物が人々に親しまれるようになるためには、一定の「時間的な距離」が必要であるとも言えるだろう。

<関連記事>

パリにおける高さ制限の歴史

 

[参考文献]

倉田保雄(1983)『エッフェル塔ものがたり』岩波書店(岩波新書)

松浦寿輝(1995)『エッフェル塔試論』筑摩書房

ロラン・バルト(1979)『エッフェル塔』審美社

エドワード・レルフ(1999)『都市景観の20世紀』筑摩書房

ヴァルター・ベンヤミン(2003)「パサージュ論第1巻』岩波書店(岩波現代文庫)

世界遺産・ケルン大聖堂と超高層建築物を巡る景観論争

世界遺産である原爆ドームのバッファーゾーンにおいて、高層マンション建設を契機に高さ制限の強化の動きがあるが、同様のケースがドイツ・ケルン大聖堂においても起きている。

高さ156mのケルン大聖堂は1996年に世界遺産に登録されているが、その周辺で計画された超高層ビルが大聖堂を取り巻く景観を損なう可能性があるとして、2004年に危機遺産に登録された。

■危機遺産登録の背景 ―ケルン大聖堂周辺における超高層建築物の建設

もともとユネスコの世界遺産委員会は、1996年の世界遺産登録時の段階で、ケルン市に対してバッファーゾーンの指定を要請していた。

しかし、市はバッファーゾーンの指定を十分に行わないまま、ライン川を挟んだケルン大聖堂の対岸において再開発コンペを実施し、2001年に5つの高層建築物(高さ100mから130m)を含むプロジェクトを選定した。

プロジェクトは大聖堂周辺の景観に影響を与えるとして、ドイツ・イコモス国内委員会等は反対したものの、市は2003年に2棟の高層ビル計画を許可したのである。

また、その計画の南側では、ラインラント地域連合(Landschaftsverband Rheinland)が別の高層ビルを計画し、特に市への相談もないままに建設が開始され、こちらはそのまま完成する。

これら一連の開発によってケルン大聖堂の景観的価値が損なわれると判断した世界遺産委員会は、2004年にケルン大聖堂を危機遺産リストに登録した。

■高層ビル推進派と景観保全派との論争

危機遺産登録を受け、ケルン市長をはじめとする高層ビル建設推進派と景観保全派との間で論争が続くことになる。

製造業をはじめとする地場産業が低迷し、失業率が10%を超えていたケルン市にとって、高層ビルによる再開発は経済活性化の起爆剤になることが期待されていたのである。

しかし、ビル建設による経済活性化よりも、世界遺産登録抹消と観光客減少によるマイナス面の方が深刻であると市は判断し、2005年末に2棟の高層ビルの計画を一時停止するとともに、高層建築物の建設可能地域の見直しを行うことを決めた。

2006年春に市はバッファーゾーンの見直しを行い、同年7月に危機遺産リストから外れたものの、対岸のドゥーツ歴史地区がバッファーゾーンの区域外のままである等の問題を抱えている。

■ケルン大聖堂のケースから学ぶ点

広島の原爆ドームのバッファーゾーンでは景観法に基づく景観計画で高さ制限をかけることを検討しているが、地元地権者を中心に反対意見もあり、現在計画策定には至っていない。

ケルンでは高層建築物の推進派と反対派が議論をつくした末に、ケルン大聖堂周辺の景観を損なう高層建築物は必要ないとの結論を導き出している。

広島においても、原爆ドームを含む周辺エリアの景観的・文化的価値や広島中心部の活性化、既存不適格マンション住民の居住権など、様々な観点から議論を重ねた上で、世界遺産・原爆ドーム周辺のあり方を示すことが求められているのであろう。

※原爆ドーム周辺における高さ制限については、下記の記事を参照。

○世界遺産・原爆ドーム周辺における景観保全のための高さ規制 -美観形成要綱から景観計画へ

https://aosawa.wordpress.com/2009/12/10/

○原爆ドーム周辺における高さ制限が当面見送りへ

https://aosawa.wordpress.com/2010/12/16/

[参考文献]

○Machat, Christoph (2006), The World Heritage List – German Conflicts related to Buffer Zones and nomination areas of wide extention: Cologne Cathedral and Dresden Elbe Valley

 http://www.law.kyushu-u.ac.jp/ programsinenglish/hiroshima/machat.pdf

○朝日新聞2006年7月7日記事「独・ケルン大聖堂、周辺の高層ビルで世界遺産抹消論議」

○NPO法人世界遺産アカデミーホームページhttp://www.sekaken.jp/whinfo/images/kikidatu_04.pdf