「自由の女神像」が意味するもの

2017年9月5日、アメリカのジェフ・セッションズ司法長官が、親に連れられてアメリカに不法移住した子供を強制退去させない救済措置を撤廃する方針を示した。オバマ前大統領の時代に設けられた救済措置だったが、トランプ政権に代わり、移民への風当たりが強くなっている。

ここで思い起こすのは、自由の女神像である。

自由の女神像は、アメリカの国家理念である自由やデモクラシーのシンボルであると同時に、アメリカへやってくる移民にとっても大きな意味を持つモニュメントである。

以下では、自由の女神がつくられた経緯を踏まえながら、その象徴性について考えてみたい。

■摩天楼の先駆的存在としての自由の女神像

自由の女神像の高さは、女神が右手で掲げるトーチ(松明)までが46m、台座を含めると92mに及ぶ。

なお、マンハッタン島でトリニティ教会の高さを超えた初めてのビルは、1890年に完成したピュリッツァー・ビル(ニューヨーク・ワールド・ビル)で、高さは94m。自由の女神像とほぼ同じである。

つまり、べドロー島(現リバティ島)には、ピュリッツァー・ビルの4年前に、トリニティ教会の高さを上回る建造物があったわけである。

もちろん実用的なビルである摩天楼とは異なり、あくまでもモニュメントではあるが、自由の女神像はその後のマンハッタンにおける超高層化の先駆的存在といえるだろう。

■独立を記念するシンボル:米仏共同プロジェクト

ここで、自由の女神像が建立された経緯を確認しておきたい。

自由の女神は、摩天楼誕生の直前の1886年にニューヨークで建設された(なお、同じモニュメントであるワシントン記念塔はその翌年に完成)。

自由の女神の正式名称は「アメリカ独立の記念像:世界を照らす自由」だ。つまり、アメリカ独立100周年を記念して建立されたモニュメントであることがわかる。アメリカ独立戦争を支援したフランスとの友好を示す証として、フランスからアメリカに贈られた。

フランスが像の制作とアメリカへの輸送を担当し、アメリカが台座の設計・建設を行うという米仏の共同プロジェクトであった。像は彫刻家フレデリック=オーギュスト・バルトルディが設計し、鉄骨の骨組みはエッフェル塔にその名が残るギュスターヴ・エッフェルが担当した(なお、エッフェル塔の完成は自由の女神完成の3年後の1889年)。

■マス・メディアの時代と自由の女神像

だが、建設当時は必ずしも好意的に受け入れられていたわけではなかった(このあたりはエッフェル塔と類似する構図である)。

一般市民は、自由の女神の建設を一部の富裕層が勝手に進めていることと冷ややかに見ていたという。それゆえ台座の建設費用もなかなか集まらず、独立宣言100周年の1876年には間に合わなかった。

建設費用は、ジョセフ・ピュリッツァーが立ち上げたワールド新聞社が公共精神と愛国心に訴えかける一大キャンペーンを展開し、寄付を募ることでまかなわれた。自由の女神像がアメリカの理念を具現化したものとして認識されるようになったのは、メディアの力も少なくなかったのである。

前述のように、ピュリッツァー・ビルはトリニティ教会の高さを超える最初のオフィスビルであったわけだが、自由の女神とともに、新聞王ジョセフ・ピュリッツァーが関与していたことは偶然だろうか。

自由の女神と摩天楼は、マス・メディアが台頭していく時代をも象徴していたのである。

■移民を迎える寛容のシンボルとしての自由の女神像

1886年に自由の女神像が完成すると、新たな意味が付与されていく。それは世界各地からアメリカへやってくる移民によってもたらされた。

自由の女神像が立つリバティ島は、大西洋からマンハッタンへ向うニューヨーク港の玄関口に位置する。つまり、自由の女神は、アメリカにやってくる人々が最初に目にするランドマークであった。

フランシス・F・コッポラ監督の「ゴッドファーザーpartⅡ」では、イタリア・シチリア生まれの主人公が、移民船の上から自由の女神を見上げるシーンが描かれている。映画の冒頭にこのシーンを見せることで、自由の国・アメリカに希望を見出す主人公の心情を表現しているわけである。

つまり、自由の女神像は、祖国を離れて新たにアメリカへやってくる移民を慈悲深く迎えてくれる寛容のシンボルとなった。

自由の女神像の台座には、自らもロシアからの移民であったエンマ・ラザルスの詩が刻まれている。

  家なく嵐に打たれた者たちへ自由の女神は
  黄金のドアのかたわらでランプを掲げる

  エバの亡命した子どもたち、われわれはみなあなたを求める
  あなたの慈悲深いまなざしがわれわれの上に降り注ぐ・・・・
         (若桑みどり『イメージの歴史』から引用)

自由の女神像が掲げるトーチは、移民者を自由の国アメリカに迎え入れる灯台のような役割を担ったともいえるだろう。このようにして、自由の女神像は、「移民者の母」として認識されるに至る。

■自由の女神像を巡る問題から考える

2017年の4月から8月にかけて、自由の女神像のあるリバティ島の周辺に大型船舶が長期停泊して問題となった。ロシアやドイツの富豪が所有する大型クルーザー3隻で、自由の女神像への眺めを損なうというのである(共同通信2017年9月2日)。景観問題に加えて、移民のシンボルである女神像が金持ちによって独占されることへの忌避感もあったといわれる。

だが、先に述べたように、自由の女神像の建設は、富裕層が中心になって進められたプロジェクトで、移民にとっての象徴性はその後に生じたものだった。富豪の船舶によって自由の女神が見えにくくなったことは、当初の自由の女神を巡る議論、つまり、富裕層への批判が形を変えて繰り返されているともいえる。

そして、冒頭に述べたように、親とともにアメリカに不法移住した子供を強制退去させない救済措置が撤廃される見通しとなった。この問題と、自由の女神像周辺での船舶停留問題は、直接の関連はないとはいえ、時代の空気を反映しているような気がする。

アメリカという国の根幹が自由と平等であり、そのシンボルが自由の女神像といえる。自由の女神像の見え方をないがしろにすることは、自由と平等の理念をも軽視することにもつながりかねない。

自由の女神像に込められてきた意味を考えることを通じて、改めて自由や平等とは何か、寛容とは何かを問い直す必要があるのではないか。

 

<参考文献・記事>

小田基(1990)『「自由の女神」物語』晶文社

若桑みどり(2012)『イメージの歴史』筑摩書房(ちくま学芸文庫)

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国会前庭の時計塔:「31.5m」に込められた意味

永田町の高台に立つ国会議事堂。その正門前に「国会前庭」と呼ばれる公園がある。

戦前は陸軍参謀本部があった場所だが、1964(昭和39)年の東京オリンピック開催にあわせて公園として整備された(当初、オリンピックに間に合うよう計画されたが、一般公開は1967年)。

台地の突端にあるため、皇居の濠から丸の内の高層ビル群、霞ヶ関の官庁街まで一望することができる。

ただ、普段、訪れる人は少なく、緑に囲まれた空間は静謐な雰囲気を保っている。

 

公園は、南北二つの区域に分かれており、北側に洋式庭園、南側に和式庭園が配置されている。

洋式庭園の中心には、国会前庭のシンボルともいえる塔が広い空に向けて伸びている。

憲政記念館(旧尾崎記念会館)と一緒に建設された時計塔だ。

「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄の業績を記念して、1960(昭和35)年に建設された。

この時、公園はまだ完成していない。

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時計塔は、鉄筋コンクリート造で、高さは31.5m。

三つの柱が合わさった形は、立法・行政・司法の三権分立を象徴しているという。

そういわれれてみれば、この塔を中心に、国会議事堂、霞ヶ関、最高裁判所が配置されているようにも見える。

 

□塔の高さ「31.5m」の理由

ここで注目したいのは、時計塔の高さ「31.5m」である。

やや中途半端に見えるこの数値にはどのような意味が込められているのだろうか。

その理由を探ってみると、塔の前に置かれた銘板には、こう書かれている。

「塔の高さは、「百尺竿頭一歩を進む」ということわざの努力の上にさらに努力して向上するの意味から百尺(30.3メートル)より高くした31.5メートルに設定された」

立法、司法、行政が、それぞれ更なる進歩を目指して努力を重ねることを塔に象徴させたのであろう。

 

だが、100尺という数字そのものには、この時代ならではの意味もあった。

塔が完成した1960(昭和35)年当時、建築物の高さは最大31mに制限されていた。いわゆる「100尺制限」だ。

100尺制限とは、1920年に施行された市街地建築物法(建築基準法の前身)に基づく建築物の高さ制限で、住居地域は65尺、それ以外の地域は100尺に規制された。

1931(昭和6)年にメートル法となり、65尺が20m、100尺が31mとなったが、戦後、市街地建築物法が建築基準法に再編された後も、この高さ制限は継承された。

 

時計塔が完成した1960年は、池田勇人内閣が「所得倍増計画」を発表し、高度成長期が本格化しようとしていた時期にあたる。その前年には東京オリンピックの開催も決定し、首都東京の都市改造もはじまりつつあった。

好景気が旺盛なビル需要を生み、建物の大規模化が進んだ。ただし、31m制限の範囲内である。

それゆえ、高さ制限の撤廃を求める声も大きくなっていく。

1960年当時、100尺制限は時代遅れの規制と見る向きが少なくなかったのである。

実際、同年には、建築家の丹下健三も高さ制限の撤廃を求める論文(注1)を発表し、建設省も撤廃に向けて研究を進めていた。

超高層ビル時代の前夜のことだ。

「百尺竿頭一歩を進む」に含まれる「百尺」は、もちろん比喩ではあるのだが、当時のビルの高さの限界であった31m(100尺)制限を超えるとの意味も読み取ることができるだろう。

 

□川崎秀二が高さに込めた想い:15mから31.5mへ

時計塔の高さを決めたのは、尾崎行雄記念財団理事長だった衆議院議員の川崎秀二だ。

設計を担当した海老原一郎は、当初、時計塔の高さを15mとしていた。

ところが川崎は、「十五メートルでは丸の内はおろか霞ヶ関一帯でもその存在がわからない。そこで私は元来時計塔を建てる意義は、咢堂(注2)がやかましかった「会合時間の厳守」を周知させるためのものだから、十メートルや十五メートルの高さでは問題にならない。建築法の制限一杯まで伸ばすべき事を主張した」という(「建設の思い出と忘れえぬ人々」『尾崎記念会館・時計塔建設記』5頁)。

 

川崎は、当時の制限を「31.5m」と書いているのだが、前述したように正しくは31mである。

しかも、この制限は屋根や壁のある「建築物」が対象で、塔のような工作物は規制の対象外となる(東京タワーも工作物とみなされて建設できた)。

ただ、いずれにしても「100尺制限(31m制限)」を意識して塔の高さが決められたことは間違いないだろう。

最終的に決まった塔の高さ31.5mは、31m(100尺)制限を僅かに上回る。

「それなら百尺竿頭一歩を進めるという事になり、進歩的思想を表現する事にもなる」(同上)と川崎は述べている。

つまり、塔の高さは、ことわざに由来するというより、100尺制限が直接的な理由であり、結果的にことわざの意味にも符合したと考える方が自然なのかもしれない。

 

最後に、31m(100尺)制限の行方について触れておきたい。

1963(昭和38)年の建築基準法改正で容積地区制度が創設。その翌年に東京で容積地区が指定された。

これで環状6号の内側では絶対高さ制限は撤廃となり、代わりに容積率制限が実施されることとなる。

同年、高さ72mのホテルニューオータニが完成し(注3)、1968(昭和43)年には高さ147m(最後部の高さ156m)の霞が関ビルが竣工した。

超高層ビル時代の幕開けである。

霞が関ビルや西新宿の高層ビル群の影に隠れがちだが、国会前庭の時計塔は、100尺制限の時代から超高層の時代への転換点を象徴する存在でもあったのである。

 

(注1) 丹下健三(1960)「都市計画関連諸法についての私見」『都市問題』51(11)、東京市政調査会、p84-92

(注2) 咢堂は、尾崎行雄の雅号。

(注3) ホテル・ニューオータニは、絶対高さ制限の例外許可(当時の建築基準法57条但し書き)で建設された。

 

□参考文献

久保作次編『尾崎記念会館・時計塔建設記』尾崎行雄記念財団、1961年

 

世界遺産サンクト・ペテルブルクにおける超高層ビル論争 ~国家的プロジェクトと景観問題~

今回は、ロシアの古都サンクト・ペテルブルクで起きた超高層ビル論争を紹介したい。

サンクト・ペテルブルクは世界遺産に登録された歴史都市である。

その近接地に高さ396mの超高層ビルが計画され、歴史的景観にそぐわないとして問題となった。

この超高層ビルは、プーチンやメドベージェフといった新旧大統領が大きく関わる政府系企業・ガスプロムネフチの本社ビルとして計画された。いわば「国家プロジェクト」としての超高層ビル開発だった。

■サンクト・ペテルブルクの歴史地区と世界遺産登録

サンクト・ペテルブルクは18世紀初頭から1917年のロシア革命まで、ロシア帝国の首都であった。
ソ連時代にレニングラードと改称されたが、ソ連崩壊後の1991年に元の名前に戻された。

市中心部の歴史地区には、ピョートル大帝(位1682~1725年)がイタリアなどの建築家を招いてつくった宮殿や教会等の壮麗な建築物群が残されている。

その歴史的な価値が認められ、1990年には世界遺産に登録された。

地区内の景観を保全するため、地区内の建物は、世界三大美術館の一つ、エルミタージュ美術館(冬の宮殿)の高さを超えないように規制されている。

その結果、歴史地区では整然とした街並みが保たれているのである。

■政府系企業による高さ396mの超高層ビル開発

2006年、その歴史地区の景観を大きく揺るがす超高層ビルの計画が明らかとなった。

ロシアの政府系天然ガス企業「ガスプロム」がサンクト・ペテルブルク市と共同で高さ396mの「ガスプロム・シティ」の建設を発表したのである。

当時、ガスプロムは、世界的な石油・天然ガス価格の高騰によって業績を拡大させていた。

このビルは、その傘下企業、ガスプロムネフチの本社機能ビルとして計画されたものだった。

サンクト・ペテルブルクは、ウラジミール・プーチン大統領の出身地である。そのため、このビルは「プーチン・タワー」とも揶揄されることとなる。

市の全額負担による建設への反発

建設計画が明らかになると、建設費用の捻出方法が問題視された。

サンクト・ペテルブルク市が建設費用を全額拠出し、完成後、ガスプロムネフチの所有になると発表されたため、世論の不評を買った。

市としてみれば、国内有数の企業を受け入れることで、税収の増加や再開発による経済効果を見込んだのだろう。

しかし、市の財源を一企業のために利用することへの反発は大きかった。

そこで、2007年6月、市の全額出資ではなく、ガスプロムネフチが51%、市が49%と変更された。

さらに、プロジェクトの名称も、一企業を名に冠するのではなく、「ガスプロム・シティ」から開発予定地の地区名である「オフタ・センター」へと変更されることとなった。

高層ビルが与える歴史的景観への影響

だが、問題はそれだけにとどまらなかった。

計画区域が世界遺産の歴史地区に隣接しており、高層ビルが歴史的景観に与える影響が懸念されたのである。

市内の高い建物といえば、ペトル・パウェル大聖堂(122.5m)や聖イサク聖堂(101.5m)などの歴史的建造物のほか、ソ連時代の1966年に建設されたサンクト・ペテルブルク・テレビ塔(高さ310m)くらいしかなかった。

このことからも、396mのオフタ・センターの大きさがわかるだろう。

ビルの高さだけでなく、場所も問題視された。

オフタ・センターは中心部からは約5キロ離れているものの、ネヴァ川を挟んで歴史地区に接している。

しかも、ロシア革命時に武装蜂起の作戦本部が設置された「スモーリヌイ」の対岸に位置していた。

象徴的な場所に隣接していたことが、反発をより助長したのである。

■ユネスコによる警告と高さ制限の強化

世界遺産登録を行ったユネスコは、高層ビル計画が歴史地区に隣接していることを懸念した。

そこで、2007年にバルボサ・ユネスコ事務局次長が、オフタ・センターの計画を進めるのであれば危機遺産リストへの登録も辞さないと警告した。

また、2009年3月には市議会が建設予定地周辺に高さ100mの高さ制限をかけた。

この数値は、歴史地区のシンボルの一つである聖イサク大聖堂(高さ101.5m)の高さを超える建物を認めないことを意味する。

■一転、建築許可へ:プーチン、メドヴェージェフの庇護を受けた「国家プロジェクト」

ところが、同年9月、市の土地利用・建設委員会が、例外的に高さ403mまで認める決定を行い、翌10月にはマトビエンコ市長が建築を許可した。

当初の高さは396mであったことから、最終的に高さが17m上乗せされたことになる。

許可にあたって市側は、タワーは市中心部から離れた世界遺産区域外であるために景観上の影響は少なく、市の発展に必要な開発であると主張した。

なお、計画を許可したマトビエンコ市長はプーチンのKGB人脈に連なる人物である。

2008年に大統領に就任したドミートリー・メドヴェージェフも、プーチン同様にサンクト・ペテルブルク出身で、さらにプーチン大統領時代(一期目)にガスプロムの会長を務めたこともあった。

つまり、オフタ・センターはプーチン、メドベージェフといった強力な権力者の庇護のもとで推進されていた国家的プロジェクトだったのである。

■世論の反発とユネスコの勧告

しかし、世論を無視して高さ制限の緩和が強引に進められたことが一層の批判を呼ぶことになる。

まず、ロシアのアレクサンドル・アヴデーエフ文化相が、市長の建築許可を違法としたロシア文化財保護監督局の決定をサンクト・ペテルブルク検察に送付した。

同じ頃、建設に反対する市民約3000人が抗議デモを行い、世論調査でも建設反対が66%と全体の3分の2を占めた(賛成は20%)。

また、ユネスコもオフタ・センターの建設中断と代替地の検討を勧告する決議を行った。

■オフタ・センター開発地の移転決定、高さが463mへ

こうした反発を受け、開発の動きに変化が生まれる。

2010年10月、当時のメドヴェージェフ大統領が「スモーリヌイの隣に建てる必要はあるのか」と開発場所に疑問を呈し、さらに、ユネスコとの協議が完了してから建設を開始すべきとの見解を示した。

この発言が影響したのか、12月には、マトビエンコ市長がオフタ・センターの建設地を移転させることでガスプロムと合意したと発表した。

この計画変更については、市民や国際社会との対話協調路線を志向するネドベージェフが大統領になったからこそ実現したとの見方がある一方、2012年の大統領選に向けたパフォーマンスと捉える意見も少なくなかった。

その後、建設予定地が、市西部のフィランド湾沿いに面したプリモルスカヤ地区ラフタ(14ha)に変更、2012年8月に市当局によって建設の許可が下ろされた(同年5月にプーチンが大統領に就任(二期目))。

移転地はサンクト・ペテルブルクの中心部から約9キロ離れているが、移転に併せて高さが60m上積みされて463mとなった。

この計画地の移転や高さの変更に関して議論が尽くされていないことへの批判も見られ、景観論争は未だくすぶったままとなっている。

このサンクト・ペテルブルクの景観論争は、世界遺産に登録されたからといって、国がその歴史的環境を守ってくれるとは限らないことを示している。

その意味で、このケースは、神宮外苑の風致地区における新国立競技場の建設問題と類似しているかもしれない。

<参考資料>

オフタセンター公式ホームページ  http://www.ohta-center.ru/en/

服部倫卓(2011)「ガスプロムとペテルブルグの特殊な関係」『ロシアNIS調査月報56(4)』

毎日新聞東京朝刊2007年6月12日「古都に「ガスプロム」巨大タワー計画 揺れる世界遺産の街」

読売新聞2008年10月28日「[明日へ]世界遺産を守る(6)再開発と歴史の調和を」(東京夕刊)

朝日新聞 2009年10月12日 「400メートルのビル計画、世界遺産のロシア古都大揺れ」

共同通信 2009年10月10日「超高層ビル承認で論争、ロシア 世界遺産のサンクト市」

時事通信 2009年10月11日「高層ビル計画に抗議デモ=世界遺産が危機-サンクトペテルブルク」

東京新聞 2009年12月27日「 『プーチン・タワー』計画 揺れる古都 市民反発 市は強硬姿勢」

時事通信 2010年12月10日「摩天楼建設場所の変更決定=景観に懸念-サンクトペテルブルク」

読売新聞2010年12月14日「超高層ビル「やっぱりダメ」 サンクトペテルブルク市長」(東京朝刊)

「高さ610m 幻の代々木タワー計画」について

今から約40年前に、2本の600m級タワーが計画されていたことは、以前「幻のタワー計画 高さ550mの正力タワーと高さ600mのNHKタワー」(2011年2月)という記事で触れました。

○「幻のタワー計画 高さ550mの正力タワーと高さ600mのNHKタワー」 

https://aosawa.wordpress.com/2011/01/11/

この記事を書いた段階では、NHKタワーに関する情報が少なかったために、計画の詳細にはほとんど触れませんでした(1969年7月時点の発表では、NHKの敷地内に600m級の4本脚のタワーをつくるというもの)。

しかし、その後の追加調査で、この時点でNHKが発表した計画はまだ初期段階のものでしかなく、その後、高さ610mのタワーが代々木公園内に計画されていたことが明らかになりました。

しかも、構造設計は、高層建築時代を切り開いた武藤清東大名誉教授の武藤構造力学研究所が関わり、タワーの意匠は、ヨーン・ウツソンやオブ・アラップの助手としてシドニーオペラハウスの設計に従事し、帰国したばかりの三上祐三氏が担当していたことも分かりました(三上氏は渋谷の東急文化村オーチャードホールの設計者でもあります)。

詳細については、AERA(2012年7月16日号)に掲載されましたので、こちらを是非ご覧ください。

○幻の代々木タワー計画(編集部山下努 東京工業大学大学院大澤昭彦)

ちなみに、610mという高さは、電波送信の技術的な観点から決まったそうなのですが、610mは語呂合わせでムトウ(6・10→ム・トウ)とも読めるため、武藤清の名前から高さが決まったのではないかと妄想してしまいました(この説は全く根拠がありません)。

分量が限られているため、すべてを盛り込むことはできませんでしたが、詳細な内容については別の形で公表をしたいと考えています(どういう形で公表するかは未定です)。

高さ制限値45m・60mの由来

高度地区や景観計画で指定された高さ制限値を見ると、15m、20m、31mといった値が多く用いられている。

15mは風致地区でよく使用される数値であり(注1)、20m、31mは1970(昭和45)年の建築基準法改正で容積制が全面導入されるまでの間、用途地域にかけられていた絶対高さ制限値である(注2)。

これらの数値以外にも、主に商業地域の高容積エリアを中心として、45mや60mといった高層建築物を許容する数値を設定している自治体も少なくない。

例えば、45mを見てみると、高度地区では札幌市、山形市、文京区、目黒区、世田谷区、金沢市、名古屋市、大津市等で用いられており、景観計画では、川口市、各務原市、横浜市等で設定されている。なお、京都市では、45mの高度地区が商業地域・容積率700%のエリアにかけられていたが、2007(平成19)年9月の高度地区見直しで廃止され、31mに強化された(注3)。

一方、60mは、札幌市、新宿区、金沢市の高度地区で用いられている(横浜市は、第6種高度地区(高さ20m)の緩和の上限値として60mを設定)。

では、45mや60mという数値は、もともとどのようにして決められたのであろうか。

以下では、それぞれの数値が用いられてきた背景や由来を見ていく。

■45mの由来

45mの数値がはじめて建築法規に登場するのは、1963(昭和38)年の建築基準法改正による容積地区制度導入時である。

この法改正により、容積地区を指定した区域内においては絶対高さ制限ではなく容積率と道路・隣地斜線制限によって制限されることとなり、31mの絶対高さ制限を超える高層建築物の建築が可能となった。

柔構造理論の確立をはじめとする構造・施工技術の進歩によって、31m超の高層建築物の建設が技術的にも可能となっていたが、当時の建築法規は31mの高さをもとに構造基準を設定していたため、高層建築物に対応した構造基準を定める必要が生じていた(注4)。

だが、基準をすぐに設けることは困難であるため、建設大臣が建築基準法第38条の規定に基づいて個別に安全性を確認し、認定する方法がとられることになった。

認定審査の対象となる高層建築物としては、①建築物の高さが31m以上で、その構造形式が現行法規のたてまえによらないもの、②建築物の高さが45m以上のもの、とされた(注5)。

②の45mの根拠は、31mに塔屋部分として建設可能であった12mを加えた数値が45m程度であったことや、当時既に45m程度の高層建築物は建設されておりこれらについては従来の剛構造に基づく構造基準で対応可能であると判断がなされたことが考えられる(注6)。

一方、現行法の基準では対応できない建築物、つまり「柔構造でつくられる高さ31m超の建築物」と「高さ45m超の建築物」については、個別の案件ごとに「高層建築物構造審査会(注7)」の構造安全審査を受けて、建築基準法第38条の規定に基づき建設大臣の認定を得ることとされた。

しかし、法令の構造規定についてはほとんど改正がなされなかったため、1964(昭和39)年に日本建築学会により「高層建築技術指針」が作成された。

この技術指針は、高層建築物の設計、施工の指導書として活用されることとなったが、この指針の対象建築物が45m超の高層建築物であった。

以上から、構造上の基準として採用された45mが、後に1973(昭和48)年の京都市高度地区の都心部の高さ、横浜市高度地区の特例許可による緩和の上限値として用いられ、現在に至るわけである。

■60mの由来

建築基準法においてはじめて60mの数値が見られるのは、1980(昭和55)年7月に公布された改正建築基準法施行令においてである(いわゆる新耐震基準が示された政令)。

45m超の高層建築物については高層建築物構造審査会の構造安全審査を経て、大臣認定が必要であると先に述べたが、この政令改正によって大臣認定が必要とされる高さが45mから60mに引き上げられた。

なお、この規定は、2006(平成18)年の建築基準法改正で法第20条の構造耐力の規定に移されており、60m超の建物の構造計算の方法については国土交通大臣の認定が必要とされている。

1980年の新耐震基準の検討に際して、建設省は「新耐震設計法案」(昭和52年)や「建築基準法施行令・耐震関係規定改訂基準原案」(昭和54年)を作成し、また、学識経験者・構造設計実務家等から構成される「耐震建築基準委員会」を建設省内に設置している。

その議論の中で60mの設定理由について言及されている可能性があるものの、筆者は確認をとっていない。

耐震基準という性質上、60mという数値は、集団規定の観点ではなく構造上の観点から導出されたと推測される。

ただし、1973(昭和48)年に日本建築学会が発行した「高層建築技術指針(増補改訂版)」によると、斜線制限や容積制限の制約から、現実の敷地で建設可能な高さは20階前後にとどまるとの見解が示されていることから、20階×階高3mと仮定すると60mを導き出すことができる。

また、特別避難階段設置が義務付けられる15階に階高を4mと仮定すると、15階×4m=60mになる。

60mの設定根拠としては、以上のような理由が考えられるものの、あくまでも推測に過ぎない。

一方、他法令を見ると、航空法において60mという数値が見られる。

航空法第51条の航空障害等設置義務の規定には、「地表又は水面から六十メートル以上の高さの物件の設置者は、(中略)当該物件に航空障害灯を設置しなければならない。」とある。

この規定は、1960(昭和35)年6月1日改正の航空法改正で追加された条文であるが、一般の建築物ではなく電波塔や発電所・工場等の煙突といった工作物を想定していたものと考えられる。

というのも、当時の建築基準法には、まだ用途地域における31mの絶対高さ制限が残っており、60m超の建築物は国会議事堂を除き存在していなかったのである。

例外許可により建設されていた31m超の建物でも45m程度が限界で、60mには及んでいない。

なお、31mを超える高層建築物の建設が例外許可を要せず建設できるようになったのは、容積制による特定街区制度が創設された1961(昭和36)年の建築基準法改正後である。

[注]

(1)風致政令(風致地区内における建築等の規制に係る条例の制定に関する基準を定める政令)において、風致地区内における高さ制限値は8mから15mの範囲内で定めると規定されている。この15mは、生長した高木によって建物がほぼ隠れる高さとして決められたとされる(神奈川県都市部都市公園課(1994))。

(2)1970年の建築基準法改正まで行われていた用途地域の絶対高さ制限(20m、31m)の由来については、「市街地建築物法における絶対高さ制限の成立と変遷に関する考察-用途地域の100尺(31m)規制の設定根拠について-」(土地総合研究2008年冬号)を参照。

(3)京都市の高度地区については、「京都市における高度地区を用いた絶対高さ制限の変遷」(土地総合研究2010年夏号)を参照。

(4)1962(昭和37)年8月11日に建設省住宅局長から日本建築学会に対して「現行の高さ制限の改廃とそれに伴い必要とする法的措置について」諮問され、同年10月29日に建築学会から建設省に答申された。

それによると、高層建築物については以下のような見解が示されている。

「現行法においてはおおむね現行高さの制限を想定して諸規定が組立てられているので、早急に高層建築物に関する関係規定の整備が必要である。しかし、この種建築物の実例及び施工経験が少ない現段階においては、一般通則的な規定をただちに設定することは困難であると思われるので、当分の間は建築物の設計・施工法につき個々に審査指導する方途を考慮する必要がある。」(「建築物の高さ制限に関する本会の所見発表まで」『建築雑誌1962年12月号』)

(5)梅野(1965)p24

(6)当時の建築基準法第57条第1項には用途地域における絶対高さ制限(31m、20m)が規定されていたが、但し書きとして、「ただし、次の各号の一に該当する場合において、特定行政庁の許可を受けたときは、この限りでない。 一 建築物の周囲に広い公園、広場、道路その他の空地がある場合等であつて、交通上、安全上、防火上及び衛生上支障がないと認める場合」とあり、周辺に空地があれば特例許可により、31m超の建築物の建設は可能であった。

実際に、1953(昭和28)年には大阪第一生命ビル(高さ41.23m、12階)、1954(昭和29)年には渋谷東急デパート(高さ43m、11階)が完成している。

また、同時期に東京駅八重洲口に高さ47.8m、12階の鉄道会館が計画されていたが、なかなか許可が下りず、1954(昭和29)年に6階部分までが完成し開業したが、全体は1968(昭和43)年に竣工している。

(7)高層建築物構造審査会は、1964(昭和39)年9月に建設省に設置されたが、1965(昭和40)年8月に財団法人日本建築センターの設立とともに、審査会は日本建築センターに移管されている。当時の審査会の委員は15名で組織され、毎月1回開かれていたという。個々の審査にあたっては部会が設けられ、その都度専門委員が委嘱されていた。

[参考文献]

○梅野捷一郎(1965)「高層建築物構造審査会報告(その1)」『建築行政14(71)』、建築行政協会、p24‐27

○神奈川県都市部都市公園課(1994)『風致地区のあり方に関する20項目の提言:環境と共生した美しき都市の創造のために』神奈川県

○日本建築学会(1973)『高層建築技術指針 ―増補改訂版』日本建築学会

○大澤昭彦(2008)「市街地建築物法における絶対高さ制限の成立と変遷に関する考察-用途地域の100尺(31m)規制の設定根拠について-」『土地総合研究16(1)』、財団法人土地総合研究所、p51-61

 www.lij.jp/html/jli/jli_2008/2008winter_p051.pdf

○大澤昭彦(2010)「京都市における高度地区を用いた絶対高さ制限の変遷」『土地総合研究18(3)』、財団法人土地総合研究所、p181-210

 www.lij.jp/html/jli/jli_2010/2010summer_p181.pdf

幻のタワー計画:高さ550mの正力タワーと高さ600mのNHKタワー

2011(平成23)年12月に東京スカイツリーが竣工し、翌2012(平成24)年春に開業が予定されている。

その高さ634mは、東京タワー(333m)の約1.9倍に及ぶ。

しかし、東京スカイツリー完成の40年以上前に、東京タワーの高さを遥かに凌ぐタワーの建設が2本も計画されていた。

それが、1968(昭和43)年に日本テレビが発表した高さ550mに及ぶ「正力タワー」と、翌1969(昭和44)年にNHKが発表した高さ600mの電波塔である。いずれも完成していれば、当時世界一の高さであった。

■正力タワー(高さ550m)

1968(昭和43)年5月10日、日本テレビは、新宿区東大久保1丁目の同社所有地(現在の新宿6丁目の日本テレビゴルフガーデン跡地)に、総工費150億円をかけて、高さ550mのテレビ塔「正力タワー」を建設する計画を発表した。

その名前が示すように、正力タワーは、当時、読売新聞社社主で日本テレビ会長でもあった正力松太郎の発案により計画されている。

当時、世界一の高さを持つ電波塔は、1967(昭和42)年にモスクワに建てられたオスタンキノ・タワーの537mであり、正力タワーの550mはこの高さを意識したものであった。

正力タワーは、高さ200mと400mの位置に、それぞれ1,000~1,500人が収容可能な展望台を設置。塔の下部には20~25階建ての建築物を建設し、住宅やホテル、オフィス、百貨店といった複合機能を盛り込むものだった。

正力は、「これは広く大衆のためになることだし、高いところにのぼりたいというのは人間の本能だから採算は十分とれる」と自信を持ってプロジェクトの成功を語った(読売新聞昭和43年11月2日朝刊)。

「550m」は途方もない高さに思われるが、かつて正力は、富士山より高い世界一のタワーの建設を読売新聞紙上で発表したことがある。

これは神奈川、静岡、山梨の3県をまたぐ基礎工事を要するもので、高さは実に4,000mを超えるものであった。

タワーの下には100階建て、200階建てのビルで埋め尽くし、「世界一の塔と世界一の都会が同時に建設できる」と正力は豪語していたという(「巨怪伝・下」p366)。

その非現実的とも思える計画と比べてしまうと、高さ550mの正力タワーは現実味のある計画に見える。

実際に、正力タワーの建設にあたっては、日本テレビ、三菱地所、三菱電機、大成建設の4社によって具体的な検討が進められていたのである。

1968(昭和43)年10月24日には起工式が執り行われ、11月22日からボーリング調査が開始されている。

また、12月から翌年2月にかけて、欧米諸都市への視察団が派遣され、海外におけるタワーやテレビ・通信事情の調査も実施された。

そして、1969(昭和44)年6月23日には、東京都に建築申請書が提出され、正力タワー建設の準備は順調に進んでいったのである。

 

■NHKタワー(高さ600m)

しかし、何でも世界一でなければ気がすまない正力松太郎に冷や水を浴びせるように発表されたのが、NHKによるタワー計画である。

1969(昭和44)年3月5日、NHKの前田義徳会長が渋谷のNHK放送センター敷地内に、高さ600m級の電波塔を建設する計画を発表した。

7月に示された案によると、このタワーは「二〇〇メートルまでは鉄骨の四本足で支え、そこから五五〇メートルまではステンレスでおおった直径一五メートルの円筒形になり、さらにこの上に直径二-ニ・五メートル、長さ五〇メートルのアンテナを取付ける」(朝日新聞昭和44年7月3日朝刊)というものであった。

その高さは、高さ537mのオスタンキノ・タワーはもちろん、正力タワーを50m上回るものであるが、重量はオスタンキノ・タワーの約4分の1の7,000~8,000トンと軽量である点が売りであった。

また、正力タワーが、電波塔以外の用途としてホテル、オフィス、百貨店等の複合利用を想定していたのに対し、NHKタワーは純粋に電波塔として計画されていたことが大きな相違点と言える。

■タワー建設の背景

1960年代末と言えば、東京タワーが建設されてからまだ10年しか経過していない時期である。

では、なぜこの2本のタワーが計画されたのであろうか。

当初、東京タワーを電波塔として利用していたのは、フジテレビ、日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)、NHK教育テレビのみであった。

一方、既に開局していたNHK、日本テレビ、TBSは、それぞれ独自の電波塔を使っていた。

その後、TBS、NHKは東京タワーへ移ったものの、日本テレビは依然として、自前の塔を利用していた(日本テレビが東京タワーを使わなかった理由として、東京タワーの建設が、読売新聞のライバルである産経新聞の主導だったためとも言われている)。

この時期、本格的な超高層ビル時代を迎えつつあり、正力タワー建設が発表される1ヶ月前の1968(昭和43)年4月には、高さ147m(最高部は156m)の霞が関ビルが竣工している。

当時使われていた日本テレビの電波塔は154mにとどまるため、今後、霞が関ビルのような超高層ビルが林立することで、電波の届きにくい難視聴区域が増えることが予想された。

また、郵政省(現在の総務省)は、テレビ放送の周波数をVHFからUHFに移行させる方針を示していたが、UHF方式は、電波が直進的であるため、アンテナが高くなければ電波が高層ビルに遮られてしまうとの指摘もあった。

そこで、難視聴区域の解消を目的として、1968(昭和43)年に日本テレビが、翌1969(昭和44)年にNHKが独自の電波塔の建設を発表したわけである。

しかし、日本テレビは、「同じようなものは二本いりません。笑いものになる」「最近になって計画らしいものを出し、まだ建築申請書も出していないNHKと一緒にされ、競合などといわれるのは全くのすじちがいではないか」とNHKを批判した。

一方のNHKも、「正力さんのは観光塔じゃないですか」「NHKが民放に恒久施設を借りた例がない。そんなことをしては聴視者に責任がもてない」と日本テレビ側を牽制している(朝日新聞昭和44年7月12日朝刊、読売新聞昭和44年7月19日朝刊)。

■郵政省による調停

当時、新たに同じようなタワーを2本も建設することは無駄ではないかとの批判の声もあがっていた。

既に東京タワーが存在していたのであるから、当然の反応であろう。

そこで、1969(昭和44)年7月には、放送事業の監督官庁である郵政省の河本敏夫郵政相(当時)が調停に乗り出し、NHKに対して、利害関係者である東京タワーや日本テレビとも十分話合って調整するよう指示を出した。

これ受けて、9月3日にはNHK前田会長が会見を行い、「塔の方はしゃにむに建てるつもりはない。これは正力タワーとの調整がつくまで、一応“空中の楼閣”としておく」と、タワー建設の延期を表明した(読売新聞昭和44年9月4日朝刊)。

一方、日本テレビの福井社長は、10月24日の会見で、「正力タワーについては、あくまでも実行する」と強気の姿勢を示しながらも、「日本テレビとNHKで別々に二本タワーを建てることは無意味」であるため、「NHK前田会長とも積極的に話し合う用意がある」と、態度を若干軟化させている(読売新聞昭和44年10月25日朝刊)。

日本テレビの姿勢がトーンダウンした背景には、10月9日に正力松太郎が死去したことも多分に影響していたと見られる。

こうして、1970(昭和45)年1月には、河本郵政相が一本化を発表し、同年11月には日本テレビが東京タワーの利用を開始することとなり、2つのタワー計画は自然消滅した。

今では既に忘れ去られてしまったタワー計画であるが、もし、この2つの600m級タワーが建設されていたならば、東京のスカイラインが現在と大きく異なるものになっていたことは間違いない。

そして、新たな東京のランドマークとなりつつある東京スカイツリーも存在しなかったであろう。

<追記:2012年7月9日>

上記記事の中で、NHKタワーの内容については、情報が少なかったためにほとんど触れませんでしたが、その後の調査で、高さ610mのタワーを代々木公園内に建設する計画であったことがわかりました。

詳細な内容については、雑誌AERA(2012年7月16日号)に掲載されましたので、こちらを是非ご覧ください。

○幻の代々木タワー計画(編集部山下努 東京工業大学大学院大澤昭彦)

http://www.aera-net.jp/summary/120708_002950.html

○「高さ610m 幻の代々木タワー計画」について(当ブログ)

https://aosawa.wordpress.com/2012/07/09/

表 正力タワーとNHKタワーを巡る出来事の経緯

年月日

出来事

1968年(昭43)

4月18日

日本初の100m超の高層建築物である霞が関ビルが竣工(高さ147m)

5月10日

日本テレビ正力会長が、高さ550mのテレビ塔「正力タワー」の建設を発表

10月24日

正力タワー建設予定地で起工式(300人出席)。ホテルニューオータニで起工式披露宴を開催し、政財界等から約2,500人が出席

11月22日

正力タワー建設予定地でボーリング調査開始

12月28日

テレビ・通信事情の情報収集のためのアメリカ視察へ出発(日本テレビ幹部2名)

1969年(昭44)

1月16日

ヨーロッパ諸都市(モスクワ、ベルリン、ウィーン、シュツットガルト、ハンブルグ等)のタワー施設調査のための視察団が出発(日本テレビ、大成建設、三菱地所、三菱電機から5名派遣)

6月23日

日本テレビが、正力タワーの建築申請書を東京都に提出

7月 2日

NHK前田会長が、渋谷のNHK放送センター敷地内に高さ600mの電波塔の具体案を発表

7月11日

河本郵政大臣が、NHKに対し東京タワーや日本テレビと話合って調整するよう指示

9月 3日

NHK前田会長が、正力タワーとの調整がつくまで、NHKタワーの建設延期を表明

10月9日

正力松太郎・日本テレビ会長死去

10月24日

日本テレビ福井社長が、NHK前田会長と話合う用意があると発言

1970年(昭45)

1月 9日

河本郵政大臣が、2つのタワーの一本化が決定と発表

11月10日

日本テレビが、東京タワーを送信塔として利用開始

<付記> ※写真を2011年4月12日追加

正力タワーの建設予定地であった敷地には、その後日本テレビゴルフガーデンがつくられ、現在、オフィスや住宅等の複合施設を含む再開発が進められている。

高さ96mの「新宿イーストサイドスクエア」(業務棟)と高さ111.7mの「パークハビオ新宿イーストサイドタワー」(住宅棟)が建設中である。

この敷地は、神宮外苑のイチョウ並木から明治神宮聖徳記念絵画館(以下、絵画館)を正面に見る眺望景観の背景にあたるため、完成すれば、絵画館の後ろに高層棟が見えることが予想される。

もし、正力タワーが実現していれば、神宮外苑のイチョウ並木と絵画館の背景に550mものタワーが屹立することになったのである。

なお、東京都は、絵画館への眺望景観保全を「東京都景観計画」の中に位置付けており、景観誘導区域内に建設される建築物の高さや色彩等の誘導を行っている(東京都景観計画2009年4月改訂版p132~137参照)。

しかし、高さ制限は絵画館の背景2キロメートルの範囲内のみに適用されるため、絵画館から2キロ以上離れている当該敷地においては、高さ制限は適用されず、色彩と屋外広告物の規制のみがかけられることになる。

DSC03752

↑絵画館のドームの背景に、現在建設中の建物(おそらく業務棟)のクレーンが見える。絵画館基壇部左側に位置する住宅棟はイチョウ並木に隠れている。

DSC03746

眺望地点と絵画館の中間地点から絵画館への眺め(2011年4月)

↑東京都が定めた眺望地点から絵画館寄りの場所から絵画館を眺めると、絵画館基壇部左側に現在建設中の住宅棟が見える。

DSC03749

眺望地点(青山通り交差点)附近(2011年4月)

DSC03751

東京都が設置した眺望地点を示す標識

[参考文献]

三菱地所(1993)『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史 下巻』

読売新聞昭和43年5月11日朝刊「世界一のテレビ塔を建設 日本テレビ 新宿に五五〇メートル 今秋着工 高層ビルも含めて」

日本経済新聞昭和43年5月11日朝刊「NTV 世界一のテレビ塔計画」

読売新聞昭和43年10月25日朝刊「世界一のテレビ塔 「正力タワー」起工式 各界から名士、盛大に」

読売新聞昭和43年11月2日朝刊「「正力タワー」懇談 正力社主とブリンクマン氏夫妻」

読売新聞昭和43年11月23日朝刊「正力タワー、地盤調査始まる」

読売新聞昭和43年11月29日朝刊「高さくらべ 世界のテレビ塔 東京の「正力タワー」 完成すれば世界一」

読売新聞昭和43年12月29日朝刊「“正力タワー”建設で欧米視察 先発隊、アメリカへ」

読売新聞昭和44年1月17日(金)朝刊「正力タワー 海外視察団 第二陣が出発」

朝日新聞昭和44年7月3日朝刊「世界一のタワー NHK来週申請」

毎日新聞昭和44年7月3日朝刊「高さ600メートル、工費は158億円 NHKタワー 近く建築申請」

朝日新聞昭和44年7月11日夕刊「NHKタワー建設に 他の塔と調整指示」

朝日新聞昭和44年7月12日朝刊「世界一かけテレビ塔合戦 両者譲らぬ力相撲 行事・郵政省軍配に困る」

読売新聞昭和44年7月19日朝刊「五百五十メートルの正力タワー 建築申請書を提出 福井日本テレビ社長が発表」

読売新聞昭和44年9月4日朝刊「「正力タワー」との調整つくまで待つ NHKタワーの着工」

読売新聞昭和44年10月25日朝刊「正力タワー、NHKとの調整 話し合いの用意 福井・日本テレビ社長談」

朝日新聞昭和45年1月9日朝刊「二つのタワー一本化 NHKとNTVが妥協」

佐野眞一(2000)『巨怪伝(下) ―正力松太郎と影武者たちの一世紀―』、文藝春秋(文春文庫)

ウィキペディア「東京タワー」

東京都景観計画 http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/kenchiku/keikan/machinami_01.html(東京都都市整備局ホームページ)

高層建築物がつくる都市のスカイラインについて -「図」と「地」の関係から-

建築物が群を形成すると、都市の形であるスカイラインが浮かび上がってくる。

スカイラインの形状は、とりわけ高層建築物の存在に依るところが大きい。

建築・都市計画史家のスピロ・コストフによると、もともと「スカイライン」という言葉は、「地上と空が出会う線」を意味してきたが、地平線に建つ建物により作られる「スカイライン」として使われ始めたのは1876年以降で、一般化したのは1890年代であるという。また、もう一つの用語「スカイスクレーパー(摩天楼)」が同時期に使われるようになったことは偶然ではないとも指摘している。

■都市の固有性・イデオロギーを象徴するスカイライン

高層建築物がつくる特徴的なスカイラインは、都市固有の風景を表わし、都市のアイデンティティや都市の繁栄を示している。

社会心理学者のアンセルム・シュトラウスが「映画の中でニューヨークという場所を認識させるには摩天楼の輪郭を数秒間だけスクリーンに映せばよい」と指摘するように、スカイラインは「都市の固有性」と密接に関係しているのである。

また、スカイラインは、その時々の政治体制やイデオロギーを反映し、視覚化したものでもある。

市街地の建物(「地」の建物)の高さは低く揃い、その中に教会の鐘楼やモスクのドームや尖塔、宮殿や天守閣等のランドマーク(「図」の建物)がアクセントとなることで、メリハリのあるスカイラインが形成され、それが権力や権威の所在を象徴していた。

いわば「図」(垂直性)と「地」(水平性)の関係が明確であるために、スカイラインとしての調和が図られていたわけである。

しかし、「地」を構成する一般の建造物の高層化により、従来「図」となっていたランドマークが埋没し、従来の「図」と「地」の均衡状態が崩れるようになっていく。

■調和したスカイラインは「抑圧の象徴」か?

かつての教会や宮殿を中心とした景観は、調和のとれたスカイラインを形成しているとの見方がある一方で、封建制や絶対王政時代の権威主義的な「抑圧の象徴」と否定的に解する向きもある。

後者の観点からすると、高層ビルが林立する現在の都市の姿は、景観や眺望を損なう元凶というよりは、民主化が定着した結果として肯定的に解釈できるだろう。

しかし、小泉構造改革の下で進められた日本の都市再生政策のように、国家主導の規制緩和に基づく大規模再開発は、地方分権の流れに逆行し、民意が十分に反映されていないとの指摘もある。

その点、日本と同様に高層化が著しいロンドンやミュンヘン等においては、都心部の高層化を巡って議会を巻き込んで議論がなされている。

高層化の是非はともかくとして、これらの都市では、民主的な手続きに則って高層化が進められている例と言えるだろう。

■西洋と日本の比較に見る「図」と「地」の関係

ここで、西洋と日本の比較から、図と地の関係を見てみる。

建築史家の鈴木博之は、西洋と日本の建築・都市の違いを、垂直性と水平性の違いから説明している。

鈴木は、あくまで五重塔や天守閣等は例外であり、結局日本においては高層建築による垂直性の文化は根付かなかったと述べる。

このことは、そもそも日本の市街地において、「図」と「地」の関係が明確に意識されていなかったことを意味する。

近代以前は、「図」となる建物は限られたものであったために、意図されたものではなかったにせよ、「図」と「地」の関係にはメリハリがあった。

しかし、近代以降の「地」の高層化により、均衡していた景観に変化が生じる。

これまで「図」であったものが、高層化した「地」の一部に紛れてしまうことにより、従来の「図」と「地」の関係が不明確になっていった。

日本において「図」と「地」の関係が不明確となっていった背景には、もともと「図」と「地」の関係が明確に意識されない水平性の文化であったことに加えて、徳川期の身分制に基づく高さ制限の存在が高層化に対する免疫を育てなかったために、なし崩し的に高層化が進んでしまったことがあると思われる。

いわば「図」と「地」の調和や「地」としての街並みの作法を会得する機会を持たずに近代を迎え、経済的な要請に従い高層化を進めてしまったといえるだろう。

■日本におけるスカイラインのあり方とは?

グランドデザインを描いた上での、「図」と「地」のメリハリのある戦略的な高層化が必要ではあるが、グランドデザインを描くという発想自体が垂直的な都市の独特の発想とも言える。

日本のような水平的な都市の発想は、部分の集合から全体を形成するという指向性が特徴であるのに対し、垂直都市は、全体を確定した上で部分の役割を配置するという発想だからである。

本来、日本における「図」は、建物ではなく山河であるとの見解もある。例えば、上田篤は、都市の中から聖所である山を眺める『山見の聖軸』を保全すべきと述べている。

また、齋藤潮も、「不変項としての土地の景観、いわば地景を都市内に持ち続け」て、「山河の眺めを都市内部において保持する」ためにこそ、建築規制が必要であると述べている。

つまり、山や川への眺めを基調に、建物の高さや高層化のあり方を考えていくことがこれからのスカイライン形成のヒントになるといえるだろう。

[参考文献]

KOSTOF,Spiro(1991),’The City Shaped’,Bulfinch

イーフー・トゥアン(1992)『トポフィリア: 人間と環境』せりか書房

鈴木博之(1999)『日本の近代10 都市へ』中央公論新社(※追記:2012年10月に文庫化[中公文庫])

上田篤(2003)『都市と日本人:「カミサマ」を旅する』岩波書店(岩波新書)

斉藤潮(2005)「形態を超えて ーシステムとしての都市デザインー」中村良夫編著『環境と空間文化 建築・都市デザインのモチベーション』学芸出版社