【講演の案内・5/23】 超高層ビルは都市をどう変えたか ~霞が関ビル誕生から50年~

講演の案内です。よろしければご参加ください。当日は充実した資料を配布したいと考えています。

(日比谷カレッジ)超高層ビルは都市をどう変えたか ~霞が関ビル誕生から50年~

開催日時:2018年5月23日(水)午後7時~午後8時30分
開催場所:日比谷図書文化館(日比谷公園内) 地下1階 日比谷コンベンションホール(大ホール)
定員:200名(事前申込順、定員に達し次第締切)
詳細・申込:日比谷図書文化館ホームページ
参加費:1,000円(千代田区民500円*千代田区民の方は住所が確認できるものをお持ちください。)
お問い合わせ:日比谷図書文化館 03-3502-3340(代表)

<内容>
日本の超高層ビル時代を切り拓いた霞が関ビルの誕生から50年。高層オフィスビルやタワーマンションのある風景は今や日常となっています。都内だけで高さ100m超の高層ビルは400棟を数え、半世紀を経て都心のスカイラインは大きく変貌しました。東京五輪を控え、超高層ビル開発は今なお活発です。
本講演では、高層ビルの歴史や世界の超高層化の動向を踏まえながら、日本で超高層ビルが生まれた経緯や社会的背景とともに、超高層ビルが都市環境や人びとの生活に与えてきた影響、さらには人口減少時代における超高層ビルのあり方について語ります。

<講師プロフィール>
講師:大澤 昭彦(高崎経済大学地域政策学部准教授)
1974年生まれ。東京工業大学大学院社会理工学研究科社会工学専攻博士課程修了後、財団法人土地総合研究所研究員、東京工業大学大学院総合理工学研究科助教を経て現職。博士(工学)。専門は都市計画、景観計画。関連する著書・論文に「高層建築物の世界史」(講談社現代新書、2015年)「高さ制限とまちづくり」(学芸出版社、2014年)、「超高層ビルと持続可能性」(BELCA news28(156)、2016年)、「人類はなぜ高層建築に挑むのか」(「バベルの塔展」公式ガイドブック、2017年)等。

<関連ページ>

霞が関ビルは日本初の超高層ビルか?

朝日新聞2018年4月12日「「日本初の超高層」霞が関ビル、見下ろし見上げて50年」

広告

霞が関ビルは日本初の超高層ビルか?

日本で初めてつくられた超高層ビルは何か。おそらく多くの人が、1968(昭和43)年に竣工した霞が関ビル(高さ147m)を挙げるのではないか。

ところが、「日本初」を自認する超高層ビルは少なくとも三つ存在する。

完成順に、ホテル・ニューオータニ、ホテル・エンパイア、霞が関ビルである。いずれも1960年代に竣工した高層ビルだ。

各ビルの施工を担当したゼネコンが、それぞれ「日本初」を主張している。以下でその内容を確認し、どれが日本初の超高層ビルなのかを明らかにしたい。

 

■ホテル・ニューオータニ:戦後初の60m超ビル

ホテル・ニューオータニは、1964(昭和39)年9月に最高高さ72m(軒高61.24m)、17階建ての高層ビルとして完成した。

Hotel NewOtani

ホテル・ニューオータニ(出典:「近代建築」1964年10月号)

1964(昭和39)年の東京オリンピックに向けてつくられた主に外国人客のためのホテルで、当時としては珍しかった回転式展望レストラン(スカイラウンジ)が設置されたことでも知られる。

ホテル・ニューオータニ完成前まで、国内で最も高い高層ビルは、高さ65.45mの国会議事堂だった(1936年竣工。東京タワーや原町無線塔などの工作物を除くとビルとしては当時日本一)。ホテル・ニューオータニは、戦後初めて国会議事堂の高さを超えるビルとして誕生したわけだ。

ここで、施工を担当した大成建設による記述をいくつか見てみよう。

 

「なにしろ初めての超高層建築ですので、当社設計部・技術研究所・ホテル東京オータニ作業所の三者でチームを編成し、新しい工法や材料についての調査研究、各種実験を行ない、データの不備を補いつつ工法を決定し、工事を進めています」(『大成クォータリー(12)』1964年)

「わが国第1号の超高層建築、それも延102,500㎡に及ぶ巨大なホテルを、東京オリンピックに間に合わせるため、設計期間を含めてわずか17カ月で完成させた」(『大成クォータリー(15)』1965年)

 

はっきりと「初めての超高層建築」「わが国第1号」と謳われている。

「新しい工法」とは、柔構造を用いた高層建築という意味だが、柔構造こそ超高層ビルの実現に欠かせない技術だった。大成建設が日本初と表現したのも、この点を根拠とするものだ。

しかし、このビルを「超高層ビル」と表現するには違和感を持つ人がいるかもしれない。

というのも、超高層ビルといえば、マンハッタンのエンパイア・ステート・ビルやクライスラー・ビルのように、細長いタワー状の形を想像する人が多いと思われるからだ。

だが、ホテル・ニューオータニは3つの板状の建物をつないだ三ツ矢状のものであるため、空に伸びる垂直性は感じられない。

その点、垂直性を強調した超高層建築として誕生したビルがホテル・エンパイアだった。

 

■ホテル・エンパイア:法制度から見た「日本初」

1965(昭和40)年竣工のホテル・エンパイアは、当時「日本のディズニーランド」とも称された横浜ドリームランド内に設けられたホテルだ(現在、横浜薬科大学校舎)。

Hotel Empire

ホテル・エンパイア(出典:「近代建築」1965年6月号)

ホテル・エンパイアを直訳すれば「帝国ホテル」だが、もちろん日比谷の帝国ホテルとは関係がない(なお、帝国ホテルの英語表記はImperial Hotel)。この名前は、当時世界一の高層ビルだったエンパイア・ステート・ビルにあやかったのかもしれない。

仏塔のような多層塔の形をした高さの高層ビルで、その高さは21階建ての77m、相輪部分を含めると93mに及ぶ。

「21階」という高さは、施主であるドリーム観光の社長が決めた。ドリームランドの名前に込められていた「21世紀へ架ける夢」に由来する。

最高高さ93mのホテル・エンパイアは、ホテル・ニューオータニを20m以上上回るものの、完成は1年ほど遅い。それではなぜ日本初の超高層ビルなのか。ここで施工者である大林組の記述を見てみよう。

 

「ホテルエンパイアは、霞ガ関ビルにさきがけ建設省高層建築物構造審査会の審査を通過した日本における超高層建築第一号である。」(『大林組八十年史』p397)

「地下2階、地上21階、高さ77.7mという規模は、階数においても高さにおいても、現在の日本では最高であつて、構造設計については建設省の「高層建物【※原文ママ】構造審査会」の審査を通過して本格的な超高層建築第1号である」(「ホテルエンパイアの設計々画」『建築界14(6)』栄木一成(1965)p.74)

 

高層建築物構造審査会の審査を通過した超高層ビルとしては第1号と読み取れる。これはどういうことか。

まず、当時の法規制の状況を確認したい。日本では1919(大正8)年に制定された市街地建築物法以来、建築物の高さは住居地域で20m、商業地域等では31mに制限されていた。戦後、市街地建築物法が建築基準法に変わった後もこの規制は継承され、超高層ビルは厳しく制限されていた。

その後、1963(昭和38)年の建築基準法の改正で、一部エリアで絶対高さ制限が撤廃されることになった。容積地区制度が新設され、その区域内では絶対高さ制限の代わりに容積率制限で建築物の規模をコントロールすることになったのである。法律上、超高層ビルの建設が可能となった。

ところが、建築基準法上の建築構造の基準は従来の建物(高さ31m以下。最大でも45m程度まで)を前提としたままだった。超高層ビルの構造技術は進歩の途上にあり、構造の基準が確立されるまでには至っていなかったのである。

そこで建設省は、1964(昭和39)年に建築構造の専門家で構成される「高層建築物構造審査会」を設置。審査会が超高層ビルの構造設計を一件ずつ審査し、構造上問題ないと認めたものを建設大臣が認定するという手続きが設けられた。

ホテル・エンパイアは、この手続きに基づき建設された初めて超高層ビルだった。つまり、「法制度から見た超高層ビル」という条件では第1号と位置付けることができるだろう。

 

■霞が関ビル:日本初の100m超ビル

ホテル・エンパイアは垂直性を備えた塔状の高層ビルではあるものの、高さは100mに届かない。

日本で初めて100mを超える高層ビルが、1968(昭和43)年4月に竣工した霞が関ビルだった。高さは147m(塔屋を含めて156m)。147mはエジプトのギザにあるクフ王のピラミッドと同じだ。

KasumigasekiBuilding

霞が関ビル(出典:鹿島建設HP)

 

では、施主である三井不動産や施工を担った鹿島建設は、どのように「日本初」と表現しているのだろうか。

 

「霞が関ビルはここにようやく完成し、わが国超高層ビルのパイオニアとなった」(江戸英雄三井不動産社長日刊工業新聞1968年4月13日)

「超高層ビル第一号:三井不動産(株)の霞が関ビルは、霞が関官庁街に接する虎ノ門の一角、約一万六〇〇〇平方メートルの敷地に建設されたオフィスビルディングで、わが国初の本格的超高層建築である」(『鹿島建設百三十年史(下)』p.879)

 

ここでポイントになるのは「超高層ビルのパイオニア」「本格的超高層建築」という言葉だろう。では、どういった意味で「パイオニア」であり「本格的」なのだろうか。少なくとも次の三点が指摘できる。

 

一つ目は、取りも直さず100mの大台を超える日本で初めての超高層ビルであることである。しかも最高高さ156mは、ホテル・ニューオータニ(72m)の2倍強に及ぶ。

当時の東京は、31m規制が撤廃されたばかりということもあり、東京のスカイラインから突出して浮き出て見える建造物は、霞が関ビルや東京タワー等の鉄塔くらいのものだった(1)。霞が関ビルは東京の新たなランドマークとなったのである。

また、この年に日本は西ドイツを抜いてGNP世界2位に躍り出た。これまでの規制のくびきから解き放たれたかのように空に聳える霞が関ビルは、右肩上がりで経済成長を続ける日本のシンボルともなった。

 

二つ目は、超高層ビルの祖ともいえる建築構造学者、武藤清の存在である。東大教授を経て、鹿島建設副社長に迎え入れられていた武藤は、霞が関ビルの構造設計で中心的な役割を担った。鹿島建設が武藤を副社長として引き入れたのは、武藤抜きに100mを超える高層ビルは実現できないと考えていたからに他ならない。

先ほど、ホテル・ニューオータニが柔構造によって高さ72mのビルを実現させたと述べたが、超高層ビルの柔構造理論は、武藤清がいたからこそ確立できたのである。1959(昭和34)年、武藤を委員長とする「建築物の適正設計震度の研究委員会」が設置され、約3年後の1962(昭和37)年3月に「建築物の適正設計震度に関する研究:超高層建築への新しい試み」としてとりまとめられた(2)。この報告書では、地震国日本であっても、柔構造を用いることで高さ25階の超高層ビルも実現可能との見通しが示された。つまり、この委員会報告から日本の超高層ビルが生まれたといっても過言ではない。

 

三つ目は、霞が関ビルがその後の超高層ビルのプロトタイプとなった点である。構造、施工、材料、都市計画、プロジェクトの組織体制など、多様な観点から説明する必要があるが、ここでは都市計画の観点に絞って見てみたい。

前述のホテル・ニューオータニやホテル・エンパイアは、いずれも広大な敷地の中につくられた。つまり、敷地の外側に広がる市街地環境への影響をあまり意識する必要がなかった。だが、都市の中でこのようなゆとりのある敷地はそれほど多くない。いわば特殊な例であった。

これに対し霞が関ビルは、市街地内の敷地である。隣接敷地を含めた周辺環境への影響を無視して設計するわけにはいかない。

31m規制時代のビルは、高さが抑えられていた分、建蔽率が大きく、建物周りにオープン・スペースがほとんど取られていなかった。それゆえ、採光や通風の阻害、歩行・広場スペースの不足といった問題を抱えていた。その反省から、霞が関ビルでは超高層化する代わりに敷地面積の72%が空地となった。

こうしたタワー・イン・ザ・パーク型超高層ビルの原点は、ル・コルビュジエが提案した「300万人のための現代都市」(1922年)に遡ることができる。60階建ての超高層ビルを林立させて300万人を収容する高密都市を実現する一方、建蔽率をわずか5%(空地が95%)に抑えることで、都市に太陽と緑、きれいな空気をもたらすことができるというものであった。戦後、コルビュジエ的な高層都市を理想とする風潮が世界的に広がる中で、霞が関ビルが日本における嚆矢となったのである。

 

■日本初の超高層ビルとは?

最後に、日本初の超高層ビルは何かを整理してみよう。

ホテル・ニューオータニは、柔構造を用いた高層ビルであり、戦後初めて60mを超えるビルという点で日本初であった。

一方、ホテル・エンパイアは絶対高さ制限の撤廃に伴って設置された「高層建築物構造審査会」の審査を経て、大臣認定を受けたビルとして日本初の超高層ビルだった。

霞が関ビルは、なんといっても100mという大台を超えた初めてのビルだったこと、さらには、建物の周りに広い空地を設けたタワー・イン・ザ・パーク型超高層ビルを市街地内に建設し、その後の超高層ビルのプロトタイプとなった点で日本初ということができる。

以上からわかるように、日本初の超高層ビルかどうかは、「何をもって超高層ビル」とするか、その定義によるということに尽きる。1960年代の高度成長期、超高層ビルに対する社会的・経済的要請を背景に、それを実現する技術の進歩や法改正が、ホテル・ニューオータニやホテル・エンパイアとして結実し、霞が関ビルで本格的に開花したといえるだろう。

 

2018(平成30)年4月、霞が関ビルの完成から50年を迎えた。半世紀を経て、霞が関ビルの高さを上回る超高層ビルは、日本国内で194棟を数える(CTBUHデータベースをもとに算出)。

超高層ビルがつくってきた都市を振り返り、この50年を評価する時期に来ているのかもしれない。

 

表 三つの超高層ビルの比較(建物データは完成当時のもの)

ホテル・ニューオータニ

ホテル・エンパイア

霞が関ビル

竣工年月

1964年8月

1965年3月

1968年4月

施主

大谷観光KK

日本ドリーム観光株式会社 三井不動産株式会社

施工

大成建設

大林組

鹿島建設,三井建設

軒高(最高高さ)

60.84m(72.09m)

77.7m(93m)

147m(156m)

階数(地上)

17階

21階

36階

階数(地下)

3階

2階

3階

建築面積

9,470㎡

871㎡

3,567㎡

延床面積

102,500㎡

8,194㎡

153,224㎡

建物タイプ 板状型 多層塔型

タワー型

 

[注]

(1)1968(昭和43)年当時、東京における高さ100mを超える建造物としては、霞が関ビル、東京タワーのほかに、NHKの電波塔(紀尾井町、高さ178m)、日本テレビの電波塔(番町、高さ154m)、TBSの電波塔(赤坂、173m)があった。

(2)この研究は、国鉄の重要技術課題として昭和34年度から昭和36年度にかけて実施。もともとは、国鉄総裁の十河信二が1958(昭和33)年に東京駅丸の内駅舎(赤レンガ駅舎)を24階建て高層ビルに建て替える計画案を発表し、その実現可能性を検討するために国鉄が「建築物の適正設計震度の研究委員会」を設置した。1963(昭和38)年に十河信二が総裁を退任したことや、東海道新幹線の建設に注力していた国鉄に財政的な余裕がなかったことなどから、東京駅丸の内駅舎高層化計画は自然消滅した。

 

[参考文献]

大成建設編(1964)『大成クォータリー(12)』大成建設

大成建設編(1965)『大成クォータリー(12)』大成建設

大林組社史編集委員会編(1972)『大林組八十年史』大林組

白杉嘉明三(1968)『回顧70年:大林組とともに』大林組

栄木一成(1965)「ホテルエンパイアの設計々画」『建築界14(6)』理工図書

鹿島建設社史編纂委員会編(1971)『鹿島建設百三十年史(下)』 鹿島研究所出版会

霞が関ビル建設委員会監修(1968)『霞が関ビルディング』三井不動産

大阪万博 幻の400m級タワー

1970(昭和45)年に開催された大阪万博の記念塔「エキスポ・タワー」が完成するまでには紆余曲折があった。

当初は180m程度の計画だったが、会場の施設計画を任されていた丹下健三らが400mのタワーを提案。これを受けて、三菱グループが350mの展望塔を建設することで話が進んだ。

ところが、運輸省や大阪府の反対で巨大タワー計画は消滅。結局、127mのエキスポ・タワーに落ち着くことになる。

以下では、幻の400m級タワーが検討、撤回された経緯やその背景を見ていきたい。また、この幻の巨大タワーは、別の幻のタワー計画とも浅からぬ因縁があった。本稿では、二つの幻のタワーのつながりについても明らかにする。

 

■180mの展望塔「ランドマーク」

シンボルタワーの建設自体は早い段階から決まっていた。

1965(昭和40)年9月、パリにある博覧会国際事務局が大阪万博の開催を正式に承認した。その翌月、日本万国博準備委員会が、予算要求のために会場基本計画案を大蔵省に提出した。これを見ると、「記念物」の文字が確認できる(のちにエキスポ・タワーが建つ場所とほぼ同じ)。しかし、この段階では具体的なものは何も示されていない。ただ、モニュメントとなる建造物をつくる意図だけは読み取れる。

詳細な会場計画は、同年12月に発足した会場計画委員会(飯沼一省委員長)で検討されることになり、丹下健三と西山夘三の二人を中心に作成が進められた。

翌1966(昭和41)年3月の第1次案を皮切りに、6月の第2次案、9月の最終案(第3次案)と検討が重ねられ、委員会で承認された。だが、いずれの案を見ても、会場の土地利用や配置構成がメインであり、タワーについては触れられていない。

具体的なタワー計画が表面化するのは、最終案公表後の10月である。万博開会までの長期的なスケジュールが示された中で、1967(昭和42)年度から記念塔「ランドマーク」の建設に着手することが明らかとなった。

この計画は、会場内の最も標高が高い場所に、高さ130mから180mに及ぶ回転展望台付きのタワー「ランドマーク」を建設するというものであった。文字通り、会場の目印、シンボルとなるタワーだ。この塔は会場内を結ぶロープウェイの支柱としても用いられ、タワー上部にはロープウェイの乗降駅を設置することも考えられていた。

また、開会の2年前には完成させて、万博開催に向けてムードを盛り上げるための広告塔の意味合いも含んでいたようだ。

 

■丹下健三らの400m級タワー案

1967(昭和42)年3月15日に万博会場の起工式が執り行われ、記念塔「ランドマーク」の建設も秋には始まる予定だった。

ところが、「ランドマーク」の規模を大幅に変更する案が浮上する。4月14日、会場の基幹施設の計画・設計を担当していた丹下をはじめとする13名の設計グループが会場計画案を万博協会に提出。その中に、タワーを400mに拡大する案が含まれていたのである。

高さは従前案の2倍以上、東京タワーやエッフェル塔を上回り、塔頂部からは四国まで見渡すことができるというものだった。建設費28億円は、当初予算の約4倍だ。

日本万国博協会の菅野義丸副会長が「設計グループの意欲的なアイデアは立派なものだが、問題は費用がかかりすぎるということだ」と懸念を示したのも当然だった(朝日新聞1967年4月15日朝刊「会場計画がまとまる あらたに屋根つき道路」)

しかし、なぜここに来てタワーを巨大化しようとしたのだろうか。しかも予算を大きく上回る計画変更だ。

大阪万博の中心はシンボルゾーンの「お祭り広場」である。スペース・フレームで組み上げられた大屋根から突き出す太陽の塔が印象的であるが、そもそも広場には大屋根以外のものを「建てない」ことがコンセプトだった。そうすることで、ロンドン万博の水晶宮(クリスタル・パレス)やパリ万博のエッフェル塔のような巨大モニュメントに頼った万博が過去の遺物であることを示そうとしたのである。シンボルゾーンの軸線上に位置する「ランドマーク」は、あくまでもお祭り広場を引き立てるための存在で、タワー単独で強く自己主張するようなものではないはずだった。

ところが、唐突に400m案が表面化したのである。会場の広さとのバランスを考えて大きくしたとの話もあるが、もしかすると、当時モスクワで建設中だったオスタンキノ・タワーの存在が影響していたのではないか。

オスタンキノ・タワーは、モスクワ郊外に位置する高さ537m(現在は540m)のテレビ塔である。ロシア革命50周年を記念して1967(昭和42)年秋には完成が予定されていた。完成すれば、自立式の構造物としては東京タワーを抜いて世界一の高さとなる。

もちろん高さ400mは、オスタンキノ・タワーに遠く及ばない。ただ、東京タワーより高い日本一の構造物をつくることで、国内外に大阪万博を誇示したかったのかもしれない。

誰がそれを望んだかといえば、やはり丹下健三ではなかったか。

後年の東京都庁舎のコンペで、「都庁は日本のシンボル」と考えた丹下は、ゴシック大聖堂の双塔を模した高さ200mを超える大伽藍を提案した。

一方、万博でお祭り広場の企画・設計を担当した磯崎新も、この都庁のコンペに参加。超高層の丹下案と対照的に、都民のための広場を高さ100m以下の庁舎で囲んだプランでコンペに挑んだ。

もともと、お祭り広場を巨大モニュメントに頼らない「見えない建築」のコンセプトでつくろうとしたのは磯崎だった。

巨大モニュメントを求めた丹下と、巨大モニュメントを拒絶した磯崎の違いが、浮き彫りとなったコンペでもあった。

そう考えると、磯崎は400mのシンボルタワー案を冷ややかに見ていたのではないか。

いずれにせよ、中途半端な高さでは国家的イベントの傑出したモニュメントになり得ないとの丹下らの思いが400mタワー案となったのであろう。

 

■三菱グループの350mタワー

先に述べたように、高さ400mのタワーを実現するには28億円を要する。だが、協会の建設予算は7億5千万円しかない。しかも予算執行のためには早急に着工しなければならなかった。協会側は、5月までに建設費を負担してくれる民間の申し入れがない限り、400m案は採用しない旨を丹下に伝えていた。

400mタワーの実現は困難と思われたが、思わぬところから救世主が現れた。三菱グループがタワー建設に名乗りを挙げたのである。

三菱グループは、前年の1966(昭和41)年8月に関係企業35社で構成される三菱万国博総合委員会(委員長は寺尾一郎三菱商事副社長)を発足。翌1967(昭和42)年4月には三菱のパビリオン「三菱特設館」の出展を万博協会に申し込んでいた。まさに400m案が公表された時期にあたる。

展示内容を検討する中で、400mタワーに興味を持ったのだろう。5月には非公式に協会側に建設の意向を示し、6月10日に寺尾一郎三菱万博総合委員会委員長が、万国博協会に対し「350m以上の回転式展望台つき大型タワーを建設して施設に参加したい」と正式に申し入れを行った(日刊工業新聞1967年6月11日「三菱グループ、建設申入れ 万国博に350メートル回転展望台」)

この申し出は、協会側としても渡りに船だったに違いない。塔の建設費用を三菱が負担してくれるのであれば、既に用意していた7億5千万円を別の予算に振り向けることができる。提案した丹下グループの面目も保てる。しかも、万博開催中は無償でタワーを協会に貸与するとの提案も含まれていたのである。

協会は、もともと予定していた特設館の出展を取り消さないこと等を条件に三菱の申し出を受け入れることとなった。

三菱グループが明らかにしたタワー計画は、高さ350mから380mのシンボルタワーで、地上高さ150mと250mの位置に回転式の展望台(注1)を設けるというものだった。建設費用は32億円。万博終了後は三菱グループが運営することで、建設費用を回収することを想定していた。

しかし、400m級のタワーを実現するためには、資金調達に加えて、建設技術の裏付けも必要である。

三菱側は、400mでも技術的に可能との認識を示していた。どこまで可能だったかはわからないが、技術的な蓄積が進んでいたことは間違いない。

当時、三菱グループの万博展示の内容は、三菱万博総合委員会事務局特設館部が検討していたが、その部長を横山悌次三菱地所建築技術研究室長(初代室長。のちに同社専務)が務めていた。建築技術研究室は、先進的な建築技術の研究開発を担う部署で、当時の新しい研究課題の一つが「超高層ビル」だった。横山自身も1966(昭和41)年に完成した富士銀行本店(高さ66m)の構造設計を担当していた。

また、地上250mの高さに人を運ぶには、高速エレベーターも欠かせない。三菱電機は、1966(昭和41)年に高さ65mのエレベーター試験塔を愛知県に完成させ、試験を積み重ねているところだった。

このように、当時の三菱グループ内では、超高層化の技術開発がある程度進みつつある状況にあった。

 

■運輸省・大阪府の反対

三菱の申し入れによって、巨大タワーの実現に目途が立ったと思った矢先、思わぬ所から横槍が入る。

1967(昭和42)年7月13日の参議院運輸委員会で、三菱のタワー計画が問題視された。その理由は、巨大なタワーが、伊丹空港(大阪国際空港)を使用する航空機の離着陸に支障をきたす恐れがあったためである。

タワーの建設場所は、伊丹空港から東京方面へ向けた上昇経路に位置する。仮にこの経路を移動させると、今度は下降(着陸)経路とぶつかる。さらに、会場付近は大型機の着陸を待つ小型機の待機エリアとなっており、その旋回高度が300m程度で、塔が障害となることが考えられた。

運輸省の澤雄次航空局長は、万博事務局と話し合いをして、航空機の航行やホールディング(空中待機)の障害にならないようにすると答弁。その一方で、高さが180m程度であれば問題ないとも付け加えていた(注2)。

翌14日には運輸省が万国博協会に対し、「飛行機の航行上、危険なので190m以下のものにするよう」に要望した(日本経済新聞1967年7月16日朝刊「万博「日本一の塔」は望み薄」)。これに応じなければ、航空法に基づく高さ制限をかけるとの方針も示した。規制がかかれば強制的に建設自体が制限されるが、まずは自主的な取り下げを要請したわけだ。

万国博協会側は「この問題はすでに大阪航空保安事務所に何度も問合わせており、解決ずみの問題」と反発した(朝日新聞1967年7月15日朝刊「展望塔建設は飛行機の邪魔 万博協会に運輸省申入れ」)

だが、運輸省だけでなく、万博のお膝元である大阪府もタワーに反対の意思を示した。

18日には、左藤義詮大阪府知事が「展望塔を公共的な施設に利用するならともかく、企業の広告塔に利用する場合にはあとに残すことはむずかしい」として、万博終了後に撤去すべきとの府の考えを明らかにした(日刊工業新聞1967年7月19日「運輸省、地元が難色 三菱の“大展望塔”めぐり」)。会場の敷地は大阪府が所有する土地である。府が承認しなければ塔の建設は叶わない。

タワーの実現は難しい情勢に傾きつつあった。

以上の動きを受けて、20日、菅野義丸万博協会副会長が寺尾一郎三菱万国博総合委員会委員長と会見し、タワー建設の中止を申し入れた。これを了承した三菱グループが翌21日にタワーの建設取りやめを発表。巨大タワー計画は水泡に帰すこととなった。

タワーをつくる三菱グループにしてみれば、展望塔として収益を上げることができなければ32億円もの多額の投資を回収できない。万博後もモニュメントとして残ることが前提で手を挙げたのだから、建設中止は当然の判断といえよう。

その後、万博のシンボルタワーは、協会によって建設されることとなり、高さ127mのエキスポ・タワー(設計:菊竹清訓)として建設されることとなった(エキスポ・タワーについては、「大阪万博の二つのタワー:エキスポ・タワーと太陽の塔」を参照)。

 

■高さ550m「正力タワー」へ

三菱グループは巨大タワー計画から撤退した。ところが、翌1968(昭和43)年5月、日本テレビの正力松太郎会長が高さ550mタワー(正力タワー)の建設を発表。モスクワのオスタンキノ・タワーを超えるテレビ塔として、日本テレビが企画したプロジェクトだ(正力タワーについては、「幻のタワー計画:高さ550mの正力タワーと高さ600mのNHKタワー」を参照)。

このプロジェクトの実現に向けて、三菱グループが全面バックアップすることになる。

7月に正力と関義長三菱電機会長が会見を開き、三菱系企業(三菱地所、三菱電機、三菱商事、三菱重工)がタワー建設に協力する覚え書を交わしたことを発表した。その会見の席上、関会長は「万国博の最初の計画のとき350mの塔を建てる計画があり、高い塔については全て検討しているから大丈夫」とタワーの実現に自信を示した。

前述のように、三菱グループのパビリオンを検討した総合委員会特設館部の部長が、横山悌次三菱地所建築技術研究室長だった。横山は、正力タワー計画にも大きく関わっており、構造技術面を任されていた。550mタワーの建設に向けて、オスタンキノ・タワーをはじめとする欧米の電波塔や高層ビルの視察を行うなど、日本テレビや大成建設の担当者と検討を加えていた。構造エンジニアであった横山としても、大阪万博で未消化に終わった巨大タワーの夢を、正力タワーで実現したかったのかもしれない。

だが、正力タワー計画も日本テレビ会長の正力松太郎の死とともに消滅した。

その後、三菱地所は、横浜みなとみらいに当時日本一の高さを持つランドマークタワー(高さ296m、1993年完成)を建設。また、現在、東京駅前の常盤橋周辺で再開発を進行させており、そのランドマークとなるビルの高さが390mである(2027年完成予定)。幻となった大阪万博の三菱350mタワーが、場所と形を変えて実現するといえなくもない。

大阪万博の400m級タワーと正力タワー。いずれも、戦後日本の歴史の影に隠れているものの、戦後昭和史に刻まれたもう一つの物語として記憶されてもよいのではないだろうか。

 

[注]
(1)三菱案の展望台の高さは、東京タワーの展望台とほぼ同じ。東京タワーの展望台は、もともと地上高120mの大展望台一か所のみだったが、223mの位置にあった作業台を改修して、この年の7月から一般公開することが決まっていた。
ただ、三菱案では回転式の展望台だった点が、東京タワーとは異なる。回転する展望室は古くからあるが、高層建築やタワーでは、ドルトムントにあるテレビ塔の回転レストランが最初期のものとして知られる。日本では1964(昭和39)年に完成したホテル・ニューオータニ(高さ72m)のスカイラウンジをはじめ、デパートやホテルの回転レストランが1960年代に流行していた。

(2)航空障害の観点から塔の高さや立地が変更になることは珍しいことではない。たとえば、ミュンヘン郊外のオリンピック・パークにつくられたオリンピック・タワー(1968年完成)は、エッフェル塔とほぼ同じ322mで設計されたものの、西ドイツの航空当局から承認が得られず、結局290mに抑えて建設された。また、名古屋テレビ塔(1954年完成)も、建設地が現在の久屋大通公園に決まるまでには、いくつか候補地があった。その一つが東山公園の丘の上だったが、航空機の航行の障害になるとして取りやめになった経緯がある。現在、東山の丘には、1989(平成元)年に建設された高さ134mの東山スカイタワーが立っている。

 

[参考文献]

朝日新聞1965年10月7日朝刊「四つの区画作る 万国博覧会場の青写真」

朝日新聞1965年12月22日朝刊「委員長に飯沼氏 万国博・会場計画案」

朝日新聞1966年3月26日朝刊「世界一高いエレベーター試験塔」

朝日新聞1966年10月15日朝刊「来年中に記念塔建設 万国博会場の千里丘陵」

日刊工業新聞1966年12月20日「会場建設に「顧問団」 万国博協 伊藤氏らを委嘱」

毎日新聞1967年1月3日朝刊「まっ先にマンモス塔 四月には、参加申込み受付 会場づくり三月から」

朝日新聞1967年3月15日夕刊「万国博 会場づくり始る 大阪の千里丘陵 秋には本部ビル着工」

日刊工業新聞1967年3月16日「万国博いよいよ本番 会場敷地造成始る 十月に終了 六月から道路工事も 展望塔は十月ごろ着工」

日本経済新聞1967年3月28日朝刊「万国博会場に日本一のタワー案」

日刊工業新聞1967年3月31日「三菱系は三十五社で 万国博 あす出展申込み」

毎日新聞1967年4月9日朝刊「基幹施設の最終設計案 中心の塔は四百メートル “動く歩道”を大動脈に」

日刊工業新聞1967年4月13日「最終的な配置設計案を説明 丹下氏ら万国博会場基幹施設で」

朝日新聞1967年4月15日朝刊「会場計画がまとまる あらたに屋根つき道路」

日刊建設工業新聞1967年5月10日「今後は施設参加呼びかけに重点 菅野万博協副会長談」

日本経済新聞1967年6月1日朝刊「万国博シンボルタワー 三菱グループ、建設?」

日本経済新聞1967年6月3日朝刊「条件付け認む 三菱の万国博シンボルタワー」

日本経済新聞1967年6月10日夕刊「万国博に日本一の塔 三菱グループ 三五〇メートル以上」

日刊工業新聞1967年6月11日「三菱グループ、建設申入れ 万国博に350メートル回転展望台」

日本経済新聞1967年6月15日夕刊「メーンタワー認める 万国博協会、三菱に」

朝日新聞1967年7月15日朝刊 「展望塔建設は飛行機の邪魔 万博協会に運輸省申入れ」

日本経済新聞1967年7月16日朝刊「万博「日本一の塔」は望み薄」

日刊工業新聞1967年7月19日「運輸省、地元が難色 三菱の“大展望塔”めぐり」

朝日新聞1967年7月22日朝刊「建設を取りやめ 日本万国博の展望塔」

日本経済新聞1967年7月22日朝刊「万国博シンボルタワー断念」

日刊工業新聞1967年7月22日「展望塔の建設取止め 万国博 三菱グループ決める」

毎日新聞1967年8月5日夕刊「高さ百メートルの万国博展望塔 マンモスタワーの代わりに建てる」

読売新聞1967年8月16日朝刊「万博記念塔 協会が建設 幹事会へ計画提出」

 

「日本万国博覧会会場計画第1次案」『新建築41(6)』 新建築社,  1966年

「日本万国博覧会会場基本計画第2次案」『新建築41(7)』新建築社, 1966年

「日本万国博覧会会場基本計画」『新建築41(12)』新建築社, 1966年

「日本万国博覧会基幹施設配置設計:シンボルゾーン」『新建築42(8)』新建築社, 1967年

「西ドイツ、ミュンヘン市の鉄筋コンクリートテレビ塔」『セメント・コンクリート(234)』セメント協会, 1966年

『磯崎新の「都庁」:戦後日本最大のコンペ』平松剛, 文藝春秋, 2008年

『丸の内百年のあゆみ:三菱地所社史下巻』三菱地所株式会社社史編纂室編, 三菱地所, 1993年

『高層建築物の世界史』大澤昭彦, 講談社(講談社現代新書), 2015年

 

 

 

なぜ皇居濠端の高層ビルは「100m」になったのか?

皇居外苑から丸の内の超高層ビル群を眺めると、高さ100mから200m級のビルに囲まれて窮屈そうに収まっているレンガ色の建物がある。

高さ99.7m、25階建ての東京海上ビルだ。

marunouchi-skyline.jpg
丸の内のスカイライン(中央のレンガ色のビルが東京海上ビル)

東京海上ビルの完成は1974(昭和49)年。だが、計画自体はその10年ほど前から検討されていた。しかも、当初の計画では、建物の高さは100mではなく、128m、30階建てだった。

計画当時、日本国内に100mを超える高層ビルは存在していない。しかも、建設場所が皇居の濠端だったため、東京海上ビルの超高層化は、皇居の美観を損ねるとして問題視された。いわゆる「丸の内美観論争」である。

美観論争を経て、東京海上ビルは高さを減らして約100mで完成。その後、大手町、丸の内で濠端に面する敷地では、不文律のように高さ100mのビルが建っていくことになる。

それでは、なぜ128mから100mに変更されたのか、また誰が100mに決めたのか、長年分からないままだった(少なくとも私が探した限り、これに言及した文献はなかった)。

ところが、最近たまたま目にした本に、「100m」に決まった経緯が書かれていた。

今里広記「私の財界交友録:経済界半世紀の舞台裏」(サンケイ出版、1980年)の中で、丸の内美観論争についてふれられていたのである。

以下では、まず丸の内美観論争の経過を簡単に説明した上で、高さが100mに決まった理由について述べてみたい。

 

■丸の内美観論争の経緯

1966(昭和41)年、丸の内の濠端に立つ東京海上ビルを超高層ビルに建て替える計画が公になると、マスコミ、学界、建築関連団体のみならず、国会を巻き込んで議論を呼んだ。

肯定的な意見としては、敷地内に広場を持つ超高層ビルは、都市に太陽と緑をもたらし、新しい都市のシンボルになり得るといったもの。一方、否定的なものとしては、皇居や丸の内の景観に調和しない、皇居を覗き込むような高層ビルは不敬であるといった意見である。当時の佐藤栄作首相は「どうも好ましくない」と反対の立場をとった。

同じく反対の姿勢を示したのは東京都である。

建築確認申請を受けた東京都は、なかなか建築確認を下ろさず、美観地区条例をつくって規制をかけようと試みた。当時、皇居周辺には都市計画法に基づく美観地区が指定されていたが、具体的な規制はかけられていなかった。建築規制を行うには建築基準法に基づく条例を制定する必要があったため、高さ等を規制する条例をつくろうとしたのである。

また、丸の内地区の大地主である三菱地所も東京海上ビルの超高層化に反対した。当時、「丸ノ内改造計画」(1959年)に基づき、赤煉瓦ビル街を建替えて、軒高31mで揃った大規模ビルがつくる街並みへの更新を進めていたためである。

論争が起きて1年ほど経過した1967(昭和42)年11月、反対していた東京都が建築確認を下ろした。同年4月に都知事に就任した美濃部亮吉が建築確認を下ろさない合理的な理由がないと判断したことによる。既に美観地区条例案は自然消滅していた。

ただ、東京都が建築確認を下したとしても、超高層ビルの場合は建設大臣の認定がなければ着工することはできなかった。

当時は日本の超高層ビルの黎明期。未知の高さを持つ建築物であるため、構造の基準がはっきりと定まっていなかった。そこで、専門家で構成される「高層建築物構造審査会」が一件ずつ安全性を確認した上で、建築基準法第38条に基づき建設大臣が認定をする形が取られていた。

この時の建設大臣は保利茂だった。1968(昭和43)年11月には坪川信三に替わったが、両大臣とも認定手続を進めず、事態は膠着したまま時間だけが過ぎていった。結局、反対していたのが、「直属の上司」である佐藤栄作だったことによる。

ところが1970(昭和45)年9月に根本龍太郎建設大臣が認定書を受領、12月に工事が着工され、1974(昭和49)年3月に東京海上ビルは完成を迎えた。

東京海上ビル建替えが計画されてから既に約10年が経過していた。しかも、当初高さ128m、30階建てだったものが、100m、25階建てに縮小されていたのである。

 

■佐藤栄作首相への直談判

それではなぜ、128mから100mになったのか、また、誰が100mに決めたのか。

その答えが、冒頭に述べた今里広記の「私の財界交友録:経済界半世紀の舞台裏」に記されているので、それを紹介したい。

ただ、今里広記と聞いても、ピンとこない人が多いかもしれない。

今里は、日本精工の社長を務めた実業家であり、何より日本の財界に幅広い人脈を持っていた。何かしら問題が起こると調整役として担ぎ出されるほど、財界から厚い信頼を受けていた。

財界主導で進められた世界貿易センタービルとサンシャイン60の建設には、今里が多大な役割を果たしている(これらについては別の機会に記したい)。

丸の内美観論争が起きた際も、その信頼の厚さゆえに東京海上火災から調整を依頼された。今里は、美観論争が収束するまでの流れを知る立場にあったわけである。

 

今里は、まず高層ビルに反対の立場をとっていた佐藤栄作に直談判した。

総理は、「天皇陛下のお住まいをのぞくわけにはいかないからね」と従来の答えがそのまま、はね返ってきた。
「じゃあ、ひと足先にできているホテルニューオータニはどうなんですか。あそこからも、皇居はよく望めますよ」
負けずに、私も反論していった。 (今里広記「私の財界交友録」)

ホテル・ニューオータニは、1964(昭和39)年の東京オリンピックにあわせて、紀尾井町に建設された高さ72m、17階建ての高層ビルだ。当時、ビルとしては日本一の高さを誇っていた。

今里の反論に、佐藤栄作はこう返した。

「オータニは今里君、裏口じゃあないか。丸の内の東京海上とは違うからね・・・・・・・」
何と、ホテルニューオータニは皇居から見て、裏口だからという論法である。私はふきだしたくなったが、そこはじっと我慢して、「総理、お言葉を返すようですが、どっちが正面で裏口かは決まっているものでもないと思いますが・・・・・」とやり返したが佐藤首相は憮然としたままであった。(同)

 

■「100m」の理由:川島私案

今里は、認定の権限を持つ建設大臣にも直接アプローチし、佐藤栄作の説得を依頼した。

だが、保利茂も、続く坪川信三も佐藤を説き伏せることができなかった。そこで、彼らが白羽の矢を立てたのが、自民党副総裁の川島正次郎だった。党のご意見番である川島は、佐藤栄作が首相になったときに大きな功績があったことでも知られる。佐藤を説得できるのは川島しかいないとの判断が働いたのだろう。

しばらくすると、川島が「私案」を携えて今里のもとを訪れた。この「川島私案」が、東京海上ビルを巡る丸の内美観論争の解決策となる。

それは、32階建を25階建にすれば、佐藤栄作を説得できるというものだった。

佐藤は、「東京海上ビルもホテル・ニューオータニと同じ十七階にするのなら構わない」と周囲にもらしていた。そこで川島は一計を案じた。

「東京海上の三十二階、佐藤首相の十七階―これを足して二で割ると、二十五階になるではないか。これで双方とも円くおさまる」(同)

ただ、ここで注意する必要がある。東京海上ビルの当初案は、32階ではなく、30階である。30階と17階を足して2で割ると、24階となる。実際に建ったビルは25階だ。

しかし、階数ではなく地上高さを見ると、東京海上ビルが128m、ホテル・ニューオータニが72m。足して2で割ると、ちょうど100mとなる。

そして、東京海上サイドは高さ100mに計画を変更して構造確定申請書を東京都に提出。すぐに建設省に回り、認定が下りた。

川島私案によって事はあっさりと進展した。

 

■不文律となった「100m」

東京海上ビルは1974(昭和49)年3月に竣工。その後、濠端には、示し合わせたかのように100mの超高層ビルが次々と建てられた。

サンワ東京ビル(1973年、高さ99.7m)、大洋漁業ビル(1978年、高さ99.95m)、三井物産本社ビル(1976年、高さ100m)など、100mは不文律として機能していった。

その後、大手町・丸の内・有楽町地区では、自主的な街のルールである「ゆるやかなガイドライン」が1998(平成10)年2月に策定され、その中にスカイラインの考え方が示された。

基本的に皇居を中心にすり鉢状のスカイラインを描くというもので、濠に面した部分は約100m程度、皇居から離れるほど高くなり、150mから200mまで可能とされた。この内容は、2000(平成12)年8月に策定された「大手町・丸の内・有楽町地区まちづくりガイドライン」に継承され、現在に至る(ガイドラインはその後改訂され、最新版は2014年に公表)。

皇居濠端の高さ100m基準は、いまや地域のルールとして共有されている。

だが、この数値に明確な根拠はない。景観工学や都市計画的な観点から決められたわけではなく、「足して2で割る」という政治的な決着で生まれたのである。

もちろん根拠が明確でなければ意味がないというわけではない。根拠が不明確でも、長い時間をかけて規範として共有されることもあるからだ。

しかし、この件に限らないが、現在使われている基準を金科玉条のように扱うことにはやや違和感がある。今ある基準をアンタッチャブルな前提とするのではなく、規制値が定められた経緯や理由を知った上で、その意味や必要性を吟味することが求められるのではないか。

法制度や規制の歴史を研究する意義もそこにあると考えている。

 

<参考文献>

今里広記(1980)『私の財界交友録:経済界半世紀の舞台裏』サンケイ出版

大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり懇談会(2014)『大手町・丸の内・有楽町地区まちづくりガイドライン2014』

大澤昭彦(2015)『高層建築物の世界史』講談社(講談社現代新書)

 

「自由の女神像」が意味するもの

アメリカでは、たとえ不法移民であっても、親に連れられて移住した場合には強制退去させられることはない。オバマ前大統領の時代に設けられた救済措置だ。不法移住の責任は親が負うべきで、その子供に罪はないとの理屈に基づくものである。

ところが、2017年9月5日、アメリカのジェフ・セッションズ司法長官が、この救済措置を撤廃する方針を示した。オバマ政権からトランプ政権に代わり、移民への風当たりが強くなりつつあるが、撤廃方針はその一つといえよう。

ここで思い起こすのは、自由の女神像である。

自由の女神像は、アメリカの国家理念である自由やデモクラシーのシンボルであると同時に、アメリカへやってくる移民にとっても大きな意味を持つモニュメントである。

以下では、自由の女神がつくられた経緯を踏まえながら、その意味、象徴性について考えてみたい。

 

■摩天楼の先駆的存在

自由の女神像の高さは、女神が右手で掲げるトーチ(松明)までが46m、台座を含めると92mに及ぶ。

なお、マンハッタンのシンボルであったトリニティ教会の高さ約86mを超えた初めてのビルは、1890年に完成したピュリッツァー・ビル(ニューヨーク・ワールド・ビル)だ。その高さは94mで、1886年に完成した自由の女神像とほぼ同じ。

つまり、べドロー島(現リバティ島)には、ピュリッツァー・ビル完成の4年前に、トリニティ教会の高さを上回る建造物があったわけだ。

もちろん実用的なビルである摩天楼とは異なり、あくまでもモニュメントではあるとはいえ、自由の女神像はその後のマンハッタンにおける超高層化の先駆的存在だった。

 

■独立を記念するシンボル

ここで、自由の女神像が建立された経緯を確認しておきたい。

先に述べたが、自由の女神は摩天楼誕生の直前の1886年にニューヨークで建設された(なお、首都ワシントンD.C. に立つオベリスク状のモニュメント、ワシントン記念塔はその翌年に完成)。

自由の女神の正式名称は「アメリカ独立の記念像:世界を照らす自由」だ。つまり、アメリカの独立を記念して建立されたモニュメントであることがわかる。アメリカ独立戦争を支援したフランスとの友好を示す証として、フランスからアメリカに贈られたのである。

フランスが像の制作とアメリカへの輸送を担当し、アメリカが台座の設計・建設を行うという米仏の共同プロジェクトであった。像は彫刻家フレデリック=オーギュスト・バルトルディが設計し、鉄骨の骨組みはエッフェル塔にその名が残るギュスターヴ・エッフェルが担当した(なお、エッフェル塔の完成は自由の女神完成の3年後の1889年)。

 

■マス・メディアの時代

ニューヨークの欠かせないランドマークともいえる自由の女神像だが、建設当時は必ずしも好意的に受け入れられていたわけではなかった(このあたりはエッフェル塔と類似する構図である。別稿「高層建築物に対する拒絶反応と慣れ」参照)。

一般市民は、自由の女神の建設を一部の富裕層が勝手に進めていることと冷ややかに見ていたという。それゆえ台座の建設費用もなかなか集まらず、独立宣言100周年の1876年には間に合わなかった。

その後、ジョセフ・ピュリッツァーのワールド新聞社が、公共精神と愛国心に訴えかける一大キャンペーンを展開し、国民から寄付を募ることで建設費用がまかなわれた。自由の女神像がアメリカの理念を具現化したものとして認識されるようになったのは、メディアの力も少なくなかったのである。

ワールド新聞社のピュリッツァー・ビルは、前述のようにトリニティ教会の高さを超えた最初のオフィスビルであった。自由の女神像の建設とともに、新聞王ジョセフ・ピュリッツァーが関与していたことは偶然だったのだろうか。

自由の女神と摩天楼は、マス・メディアが台頭していく時代のシンボルでもあったのである。

 

■移民を迎える寛容のシンボル

1886年に自由の女神像が完成すると、新たな意味を持つようになる。それは世界各地からアメリカへやってくる移民達によって付与されていった。

自由の女神像が立つリバティ島は、大西洋からマンハッタンへ向うニューヨーク港の玄関口に位置する。つまり、自由の女神は、アメリカにやってくる人々が最初に目にするランドマークであった。

フランシス・F・コッポラ監督の「ゴッドファーザーpartⅡ」で、イタリア・シチリア生まれの主人公が、移民船の上から自由の女神を見上げるシーンがある。映画の冒頭にこのシーンを見せることで、自由の国・アメリカに希望を見出す主人公の心情を表現しているわけだ。

つまり、自由の女神像は、祖国を離れて新たにアメリカへやってくる移民を慈悲深く迎えてくれる寛容のシンボルであった。

自由の女神像の台座には、自らもロシアからの移民であったエンマ・ラザルスの詩が刻まれている。

  家なく嵐に打たれた者たちへ自由の女神は
  黄金のドアのかたわらでランプを掲げる

  エバの亡命した子どもたち、われわれはみなあなたを求める
  あなたの慈悲深いまなざしがわれわれの上に降り注ぐ・・・・
(若桑みどり『イメージの歴史』から引用)

自由の女神像が掲げるトーチは、移民者を自由の国アメリカに迎え入れる灯台のような役割を担ったともいえるだろう。

このようにして、自由の女神像は、「移民者の母」として認識されるに至る。

 

■自由の女神像を巡る問題

2017年の4月から8月にかけて、自由の女神像のあるリバティ島の周辺に大型船舶が長期停泊して問題となった。ロシアやドイツの富豪が所有する大型クルーザー3隻が、自由の女神像への眺めを損なうというのである(共同通信2017年9月2日)。景観問題に加えて、移民のシンボルである女神像が、一部の金持ちによって独占されることへの忌避感もあったといわれる。

だが、先に述べたように、自由の女神像の建設は、もともと富裕層が中心になって進められたプロジェクトで、移民にとっての象徴性はその後に生じたものだった。富豪の船舶によって自由の女神が見えにくくなったことは、当初の自由の女神を巡る議論、つまり、富裕層への批判が形を変えて繰り返されているともいえる。

そして、冒頭で触れたように、親とともにアメリカに不法移住した子供を強制退去させない救済措置が撤廃される見通しとなった。この問題と、自由の女神像周辺での船舶停留問題は、直接の関連はないとはいえ、時代の空気を反映しているような気がする。

アメリカという国の根幹が自由と平等で支えられているとすれば、そのシンボルが自由の女神像といえる。自由の女神像の意味を再認識することを通じて、自由や平等とは何か、寛容とは何かを改めて考える必要があるのではないか。

 

<参考文献>

小田基(1990)『「自由の女神」物語』晶文社

若桑みどり(2012)『イメージの歴史』筑摩書房(ちくま学芸文庫)

大澤昭彦(2015)『高層建築物の世界史』講談社(講談社現代新書)

国会前庭の時計塔:「31.5m」に込められた意味

永田町の高台に立つ国会議事堂の正門前に「国会前庭」と呼ばれる公園がある。

戦前は陸軍参謀本部があった場所だが、1964(昭和39)年の東京オリンピック開催にあわせて公園として整備された(当初、オリンピックに間に合うよう計画されたが、一般公開は1967年)。

台地の突端にあるため、皇居の濠から丸の内の高層ビル群、霞ヶ関の官庁街まで一望することができる。ただ、普段、訪れる人は少なく、緑に囲まれた空間は静謐な雰囲気を保っている。

 

公園は、南北二つの区域に分かれており、北側に洋式庭園、南側に和式庭園が配置されている。そして、洋式庭園の中心には、国会前庭のシンボルともいえる塔が広い空に向けて伸びている。

憲政記念館(旧尾崎記念会館)と一緒に建設された時計塔だ。「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄の業績を記念して、1960(昭和35)年に建設された。この時、公園はまだ完成していない。

DSC_0649.JPG

 

時計塔は鉄筋コンクリート造で、高さは31.5m。三つの柱が合わさった形は、立法・行政・司法の三権分立を象徴しているという。そういわれれてみれば、この塔を中心に、国会議事堂、霞ヶ関の官庁街、最高裁判所が配置されているようにも見える。

 

■塔の高さ「31.5m」の理由

ここで注目したいのは、時計塔の高さ「31.5m」である。

やや中途半端に見えるこの数値にはどのような意味が込められているのだろうか。

その理由を探ってみると、塔の前に置かれた銘板には、こう書かれている。

「塔の高さは、「百尺竿頭一歩を進む」ということわざの努力の上にさらに努力して向上するの意味から百尺(30.3メートル)より高くした31.5メートルに設定された」

立法、司法、行政が、それぞれ更なる進歩を目指して努力を重ねることを塔に象徴させたのであろう。

だが、100尺という数字そのものには、この時代ならではの意味もあった。

塔が完成した1960(昭和35)年当時、建築物の高さは最大31mに制限されていた。いわゆる「100尺制限」だ。

100尺制限とは、1920年に施行された市街地建築物法(建築基準法の前身)に基づく建築物の高さ制限で、住居地域は65尺、それ以外の地域は100尺に規制された。1931(昭和6)年にメートル法となり、65尺が20m、100尺が31mとなったが、戦後、市街地建築物法が建築基準法に再編された後も、この高さ制限は継承された。

時計塔が完成した1960(昭和35)年は、池田勇人内閣が「所得倍増計画」を発表し、高度成長が本格化しようとしていた時期にあたる。その前年には東京オリンピックの開催が決定し、首都東京の都市改造もはじまりつつあった。

好景気が旺盛なビル需要を生み、建物の大規模化が進んだ。ただし、31mの高さ制限の範囲内での大規模化だ。頭が抑えられているために、ビルは横に広がり、地下へ伸びていった。床面積をかせぐために階高を低くして、無理やり階数を増やすビルも少なくなかった。

それゆえ、高さ制限の撤廃を求める声も大きくなっていく。1960年当時、100尺制限を時代遅れの規制と見る向きも少なくなかった。

実際、建築家の丹下健三も高さ制限の撤廃を求める論文(注1)をこの年に発表した。建築基準法を司る建設省も規制撤廃に向けて研究を進めているところだった。超高層ビル時代の前夜のことである。

「百尺竿頭一歩を進む」に含まれる「百尺」は、もちろん比喩ではあるのだが、当時のビルの高さの限界であった31m(100尺)制限を超えるとの意味を読み取ることができるだろう。

 

■川崎秀二が高さに込めた想い:15mから31.5mへ

時計塔の高さを決めたのは、尾崎行雄記念財団理事長だった衆議院議員の川崎秀二だ。

設計を担当した海老原一郎は、当初、時計塔の高さを15mとしていた。ところが川崎は15mでは低すぎると考えた。

「十五メートルでは丸の内はおろか霞ヶ関一帯でもその存在がわからない。そこで私は元来時計塔を建てる意義は、咢堂(注2)がやかましかった「会合時間の厳守」を周知させるためのものだから、十メートルや十五メートルの高さでは問題にならない。建築法の制限一杯まで伸ばすべき事を主張した」(「建設の思い出と忘れえぬ人々」『尾崎記念会館・時計塔建設記』5頁)。

川崎の言う「建築法の制限一杯まで伸ばす」とは先に見た31m制限のことである。ただし、ここで注意すべきなのは、当時の31m制限は屋根や壁のある「建築物」が対象で、時計塔のような工作物は規制の対象外であったことである。したがって、つくろうと思えば31mを大幅に上回るものも建設可能だった(高さ333mの東京タワーが建設できたのも工作物だったためである)。

いずれにしても「100尺制限(31m制限)」を意識して塔の高さが決められたことは間違いないだろう。

最終的に決まった塔の高さ31.5mは、31m(100尺)を僅かに上回る。「それなら百尺竿頭一歩を進めるという事になり、進歩的思想を表現する事にもなる」(同上)と川崎は述べている。

つまり、塔の高さは、ことわざに由来するというよりも、100尺制限の数字が直接的な理由であり、結果的にことわざの意味にも符合したと考える方が自然なのかもしれない。

 

■「31m制限」のその後

最後に、31m(100尺)制限の行方について触れておきたい。

1963(昭和38)年の建築基準法改正で容積地区制度が創設。その翌年に東京で容積地区が指定された。これで環状6号線の内側では絶対高さ制限が撤廃となり、代わりに容積率制限が実施されることとなった。

同年、高さ72mのホテルニューオータニが完成し(注3)、1968(昭和43)年には高さ147m(最高部の高さ156m)の霞が関ビルが竣工した。超高層ビル時代の幕開けである。

霞が関ビルや西新宿の高層ビル群の影に隠れがちだが、国会前庭の時計塔は、100尺制限の時代から超高層の時代への転換を象徴する存在でもあったといえるだろう。

 

[注]

(1)丹下健三(1960)「都市計画関連諸法についての私見」『都市問題』51(11)、東京市政調査会、p84-92

(2)咢堂は、尾崎行雄の雅号。

(3)ホテル・ニューオータニは、容積地区指定前に計画されたため、絶対高さ制限の例外許可(当時の建築基準法57条但し書き)で建設された。

 

[参考文献]

久保作次編(1961)『尾崎記念会館・時計塔建設記』尾崎行雄記念財団

大澤昭彦(2014)『高さ制限とまちづくり』学芸出版社

 

世界遺産サンクト・ペテルブルクにおける超高層ビル論争 ~国家的プロジェクトと景観問題~

今回は、ロシアの古都サンクト・ペテルブルクで起きた超高層ビル論争を紹介したい。

サンクト・ペテルブルクは世界遺産に登録された歴史都市である。

その近接地に高さ396mの超高層ビルが計画され、歴史的景観にそぐわないとして問題となった。

しかし、この超高層ビルは、プーチンやメドベージェフといった新旧大統領が大きく関わる政府系企業・ガスプロムネフチの本社ビルとして計画された。いわば「国家プロジェクト」としての超高層ビル開発だったために問題は複雑となった。

以下で、その経緯や問題の論点を見ていきたい。

■サンクト・ペテルブルクの歴史地区と世界遺産登録

サンクト・ペテルブルクは18世紀初頭から1917年のロシア革命まで、ロシア帝国の首都であった。
ソ連時代にレニングラードと改称されたが、1991年のソ連崩壊後、元の名前に戻された。

市中心部の歴史地区には、ピョートル大帝(位1682~1725年)がイタリアなどの建築家を招いてつくった宮殿や教会等の壮麗な建築物群が残されている。

その歴史的な価値が認められ、1990年には世界遺産に登録された。

地区内の景観を保全するため、地区内の建物は、世界三大美術館の一つ、エルミタージュ美術館(冬の宮殿)の高さを超えないように規制されている。

その結果、歴史地区では整然とした街並みが保たれているのである。

■政府系企業による高さ396mの超高層ビル開発

2006年、その歴史地区の景観を大きく揺るがす超高層ビルの計画が明らかとなった。

ロシアの政府系天然ガス企業「ガスプロム」がサンクト・ペテルブルク市と共同で高さ396mの「ガスプロム・シティ」の建設を発表したのである。

当時、ガスプロムは、世界的な石油・天然ガス価格の高騰によって業績を拡大させていた。

その傘下企業、ガスプロムネフチの本社機能ビルとして計画されたのが、この超高層ビルだった。

サンクト・ペテルブルクは、ウラジミール・プーチン大統領の出身地である。そのため、このビルは「プーチン・タワー」とも揶揄されることとなる。

市の全額負担による建設への反発

建設計画が明らかになると、建設費用の捻出方法が問題視された。

サンクト・ペテルブルク市が建設費用を全額拠出し、完成後、ガスプロムネフチの所有になると発表されたため、世論の不評を買った。

市としてみれば、国内有数の企業を受け入れることで、税収の増加や再開発による経済効果を見込んだのだろう。

しかし、市の財源を一企業のために利用することへの反発は大きかった。

そこで、2007年6月、市の全額出資ではなく、ガスプロムネフチが51%、市が49%に変更された。

さらに、プロジェクトの名称も、一企業の名を冠した「ガスプロム・シティ」から、開発予定地の地区名である「オフタ・センター」へと変更されることとなった。

高層ビルが与える歴史的景観への影響

だが、問題はそれだけにとどまらなかった。

計画区域が世界遺産の歴史地区に隣接しており、高層ビルが歴史的景観に与える影響が懸念されたのである。

市内の高い建物といえば、ペトル・パウェル大聖堂(122.5m)や聖イサク聖堂(101.5m)などの歴史的建造物のほか、ソ連時代の1966年に建設されたサンクト・ペテルブルク・テレビ塔(高さ310m)くらいしかなかった。

このことからも、396mのオフタ・センターの大きさがわかるだろう。

さらに、ビルの高さだけでなく、場所も問題視された。

オフタ・センターは中心部からは約5キロ離れているものの、ネヴァ川を挟んで歴史地区に接している。

しかも、ロシア革命時に武装蜂起の作戦本部が設置された「スモーリヌイ」の対岸に位置していた。

象徴的な場所に隣接していたことが、反発をより助長したのである。

■ユネスコによる警告と高さ制限の強化

世界遺産登録を行ったユネスコは、高層ビル計画が歴史地区に隣接していることを懸念した。

そこで、2007年にバルボサ・ユネスコ事務局次長が、オフタ・センターの計画を進めるのであれば危機遺産リストへの登録も辞さないと警告した。

こうした動きを受け、2009年3月には市が建設予定地周辺に高さ100mの高さ制限をかけた。

この数値は、歴史地区のシンボルの一つである聖イサク大聖堂(高さ101.5m)の高さを超える建物を認めないことを意味する。

■一転、建築許可へ:プーチン、メドヴェージェフの庇護を受けた「国家プロジェクト」

ところが、同年9月、市の土地利用・建設委員会が、例外的に高さ403mまで認める決定を行い、翌10月にはマトビエンコ市長が建築を許可した。

当初の高さは396mであったことから、最終的に高さが17m上乗せされたことになる。

許可にあたって市側は、タワーは市中心部から離れた世界遺産区域外であるために景観上の影響は少なく、市の発展に必要な開発であると主張した。

なお、計画を許可したマトビエンコ市長はプーチンのKGB人脈に連なる人物である。

2008年に大統領に就任したドミートリー・メドヴェージェフも、プーチン同様にサンクト・ペテルブルク出身で、さらにプーチン大統領時代(一期目)にガスプロムの会長を務めたこともあった。

つまり、オフタ・センターはプーチン、メドベージェフといった強力な権力者の庇護のもとで推進されていた国家的プロジェクトだったのである。

■世論の反発とユネスコの勧告

しかし、世論を無視して高さ制限の緩和が強引に進められたことが一層の批判を呼ぶことになる。

まず、ロシアのアレクサンドル・アヴデーエフ文化相が、市長の建築許可を違法としたロシア文化財保護監督局の決定をサンクト・ペテルブルク検察に送付した。

同じ頃、建設に反対する市民約3000人が抗議デモを行い、世論調査でも建設反対が66%と全体の3分の2を占めた(賛成は20%)。

また、ユネスコもオフタ・センターの建設中断と代替地の検討を勧告する決議を行った。

■オフタ・センター開発地の移転決定、高さが463mへ

これらの反発を無視できなくなったのだろう。開発の動きに変化が生まれる。

2010年10月、当時のメドヴェージェフ大統領が「スモーリヌイの隣に建てる必要はあるのか」と開発場所に疑問を呈し、さらに、ユネスコとの協議が完了してから建設を開始すべきとの見解を示した。

この発言が影響したのか、12月には、マトビエンコ市長がオフタ・センターの建設地を移転させることでガスプロムと合意したと発表した。

この計画変更については、市民や国際社会との対話協調路線を志向するネドベージェフが大統領になったからこそ実現したとの見方がある一方、2012年の大統領選に向けたパフォーマンスと捉える意見も少なくなかった。

その後、建設予定地が、市西部のフィランド湾沿いに面したプリモルスカヤ地区ラフタ(14ha)に変更、2012年8月に市当局によって建設の許可が下ろされた(同年5月にプーチンが大統領に就任(二期目))。

移転地はサンクト・ペテルブルクの中心部から約9キロ離れているが、移転に併せて高さが60m上積みされて463mとなった。

この計画地の移転や高さの変更に関して議論が尽くされていないことへの批判も見られ、景観論争は未だくすぶったままとなっている。

このサンクト・ペテルブルクの景観論争は、世界遺産に登録されたからといって、国がその歴史的環境を守ってくれるとは限らないことを示している。

その意味で、このケースは、神宮外苑の風致地区における新国立競技場の建設問題と類似しているかもしれない。

<参考資料>

オフタセンター公式ホームページ  http://www.ohta-center.ru/en/ ※リンク切れ

服部倫卓(2011)「ガスプロムとペテルブルグの特殊な関係」『ロシアNIS調査月報56(4)』

毎日新聞東京朝刊2007年6月12日「古都に「ガスプロム」巨大タワー計画 揺れる世界遺産の街」

読売新聞2008年10月28日「[明日へ]世界遺産を守る(6)再開発と歴史の調和を」(東京夕刊)

朝日新聞 2009年10月12日 「400メートルのビル計画、世界遺産のロシア古都大揺れ」

共同通信 2009年10月10日「超高層ビル承認で論争、ロシア 世界遺産のサンクト市」

時事通信 2009年10月11日「高層ビル計画に抗議デモ=世界遺産が危機-サンクトペテルブルク」

東京新聞 2009年12月27日「 『プーチン・タワー』計画 揺れる古都 市民反発 市は強硬姿勢」

時事通信 2010年12月10日「摩天楼建設場所の変更決定=景観に懸念-サンクトペテルブルク」

読売新聞2010年12月14日「超高層ビル「やっぱりダメ」 サンクトペテルブルク市長」(東京朝刊)