【講演の案内・5/23】 超高層ビルは都市をどう変えたか ~霞が関ビル誕生から50年~

講演の案内です。よろしければご参加ください。当日は充実した資料を配布したいと考えています。

(日比谷カレッジ)超高層ビルは都市をどう変えたか ~霞が関ビル誕生から50年~

開催日時:2018年5月23日(水)午後7時~午後8時30分
開催場所:日比谷図書文化館(日比谷公園内) 地下1階 日比谷コンベンションホール(大ホール)
定員:200名(事前申込順、定員に達し次第締切)
詳細・申込:日比谷図書文化館ホームページ
参加費:1,000円(千代田区民500円*千代田区民の方は住所が確認できるものをお持ちください。)
お問い合わせ:日比谷図書文化館 03-3502-3340(代表)

<内容>
日本の超高層ビル時代を切り拓いた霞が関ビルの誕生から50年。高層オフィスビルやタワーマンションのある風景は今や日常となっています。都内だけで高さ100m超の高層ビルは400棟を数え、半世紀を経て都心のスカイラインは大きく変貌しました。東京五輪を控え、超高層ビル開発は今なお活発です。
本講演では、高層ビルの歴史や世界の超高層化の動向を踏まえながら、日本で超高層ビルが生まれた経緯や社会的背景とともに、超高層ビルが都市環境や人びとの生活に与えてきた影響、さらには人口減少時代における超高層ビルのあり方について語ります。

<講師プロフィール>
講師:大澤 昭彦(高崎経済大学地域政策学部准教授)
1974年生まれ。東京工業大学大学院社会理工学研究科社会工学専攻博士課程修了後、財団法人土地総合研究所研究員、東京工業大学大学院総合理工学研究科助教を経て現職。博士(工学)。専門は都市計画、景観計画。関連する著書・論文に「高層建築物の世界史」(講談社現代新書、2015年)「高さ制限とまちづくり」(学芸出版社、2014年)、「超高層ビルと持続可能性」(BELCA news28(156)、2016年)、「人類はなぜ高層建築に挑むのか」(「バベルの塔展」公式ガイドブック、2017年)等。

<関連ページ>

霞が関ビルは日本初の超高層ビルか?

朝日新聞2018年4月12日「「日本初の超高層」霞が関ビル、見下ろし見上げて50年」

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大阪万博の二つのタワー:エキスポ・タワーと太陽の塔

1970(昭和45)年に開催された日本万国博覧会(通称大阪万博)は、計6,421万人が訪れたアジア初の万博であると同時に、東京オリンピックと並ぶ国民的イベントであった。

その大阪万博のシンボル的存在といえば、岡本太郎デザインの「太陽の塔」を思い浮かべる人が多いだろう。

現在も万博会場跡地に残り、2018(平成30)年3月から塔内部の公開もはじまる。万博開催から約半世紀を経て、その存在感をますます高めているように思える。

しかし、太陽の塔は大阪万博のモニュメントとしてつくられたわけではない。本来の万博におけるシンボルタワーは、建築家の菊竹清訓が設計した「エキスポ・タワー」だった。

 

■万博のシンボル「エキスポ・タワー」

エキスポ・タワーは、その名のとおり万博のシンボルとして計画された。当初「ランドマーク」という仮称がつけられていたことからも、中心的な記念建造物として位置付けられていたことがわかる。

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エキスポ・タワー(出典:wikipedia)

検討初期は高さ180m程度が想定され、一時期は東京タワーを超える400m案が出たものの、紆余曲折を経て、高さ127mの鉄塔として建設された(幻の400m級タワーについては「大阪万博 幻の400m級タワー」参照。2018年3月2日追記)。会場の中で最も標高が高い丘の上に位置していたため、見かけとしては127mよりは大きく見えたと思われる。

鋼管を組み合わせたスペース・フレームで構成された塔には、大小九つの多面体のユニットが取り付けられ、展望室や展示室、各種機械室などとして使われた。単なる展望台というよりは、ユニットを追加し組み合わせれば、空中でも生活可能な環境が提供できるという新しい建築の提案でもあった。

このコンセプトは、設計者の菊竹清訓をはじめ、黒川紀章、大高正人、槇文彦などの建築家たちが1960(昭和35)年に提唱した「メタボリズム」理論に基づくものである。メタボリズムとは「新陳代謝」を意味する。建築や都市を生物のように新陳代謝を繰り返しながら、変化・成長していく有機体として捉えた考え方であった。

つまり、複数のユニットを組み合わせて変化するエキスポ・タワーは、メタボリズムの理論を具体化したものであると同時に、「人類の進歩と調和」をテーマとした万博にふさわしいモニュメントとなるはずだった。

ところが、会場の展示施設が具体化する過程で登場した「太陽の塔」が、万博のシンボルとしてのエキスポ・タワーの存在に影響を及ぼすことになる。

 

■反万博のシンボル「太陽の塔」

太陽の塔は、シンボル・ゾーンのテーマ館としてつくられた岡本太郎の作品だ。両腕を横に広げた人のような形をした高さ約70mのモニュメントで、内部に展示空間が設けられた(最初の案では塔の高さは60m)。

 

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太陽の塔(2011年撮影)

岡本は、近代やテクノロジーを礼賛する万博に懐疑的であった。むしろ太古から脈々とつながる人類のエネルギーを表現すべきと考えた結果、このような原始的、土俗的な形状になったという。万博の象徴として計画されたエキスポ・タワーとは対照的に、太陽の塔は万博そのものに対抗する意図を持って建てられたのである。

また、太陽の塔が万博会場の中心にある「お祭り広場」に建設されたことで、万博会場計画のコンセプトをも揺るがすことになる。というのも、この広場は、スペース・フレームで組み上げられた大屋根以外に何も「建てないこと」が本来のコンセプトだったからだ。

かつての万博では、ロンドン万博における水晶宮(クリスタル・パレス)やパリ万博におけるエッフェル塔のように、シンボル的な巨大建造物が欠かせなかった。

しかし、お祭り広場の設計を丹下健三と共同で手掛けた建築家の磯崎新は、コンピューター時代の都市は、物理的な建築ではなく、見えないシステムによってつくられるべきと考えた。お祭り広場に屋根以外のものを設けないことで、モニュメントによる万博が過去の遺物であることを示そうとしたのである。反万博という点では、岡本と共通する部分があったとも言えるだろう。

だが、お祭り広場に太陽の塔がつくられることが決定し、屋根以外にモノをつくらないという磯崎の「見えない建築」の意図は壊された。しかも、高さ70mの塔は当然ながら大屋根の下に収まらない。屋根には直径54mの穴が開けられ、屋根から突き出すように立てられた。

岡本はその意図についてこう述べている。

 

「頂上に目をむいた顔を輝かせ、会場全体をへいげいし、まっすぐに南端の高台に立つランドマークをにらんでいる。こういう対決の姿によって、雑然とした会場の、おもちゃ箱をひっくりかえしたような雰囲気に、強烈な筋を通し、緊張感をあたえるのだ」(岡本太郎「ベラボー・タワー」『中央公論1970年5月号』p328)

 

大屋根を突き破り、エキスポ・タワーをにらむ太陽の塔は、万博のシンボルであったはずのエキスポ・タワーの存在感を薄めてしまうほどのインパクトをもたらしたのである。

 

■二つの塔のその後

この二つのモニュメントは、万博閉幕後も跡地に残された。しかし、大阪万博の象徴として人々に記憶されているのは、本来シンボルタワーではなかった太陽の塔である。

未来の住宅・都市像を示したはずのエキスポ・タワーは、入場者の減少や老朽化により1990(平成2)年に閉鎖、2004(平成16)年に解体された。メタボリズム的な都市も実現していない。

一方、反近代、反万博を謳った太陽の塔は早々に永久保存が決まり、今も万博公園の中にその姿を見ることができる。なお、お祭り広場に架けられていた大屋根は、屋根に張られていたポリエステルフィルムが汚れてみすぼらしいとの声が大きくなったことから撤去された(公園内にスペースフレームの一部は保存)。

太陽の塔の高さはエキスポ・タワーの約半分の70mに過ぎない。しかも、皮肉なことに、反万博を標榜した太陽の塔が万博の象徴として生き続けている。

塔のシンボル性は、必ずしも「高さ」や「作り手の意図」によって担保されるわけではないことを太陽の塔は証明していると言えるだろう。