国会前庭の時計塔:「31.5m」に込められた意味

永田町の高台に立つ国会議事堂の正門前に「国会前庭」と呼ばれる公園がある。

戦前は陸軍参謀本部があった場所だが、1964(昭和39)年の東京オリンピック開催にあわせて公園として整備された(当初、オリンピックに間に合うよう計画されたが、一般公開は1967年)。

台地の突端にあるため、皇居の濠から丸の内の高層ビル群、霞ヶ関の官庁街まで一望することができる。ただ、普段、訪れる人は少なく、緑に囲まれた空間は静謐な雰囲気を保っている。

 

公園は、南北二つの区域に分かれており、北側に洋式庭園、南側に和式庭園が配置されている。そして、洋式庭園の中心には、国会前庭のシンボルともいえる塔が広い空に向けて伸びている。

憲政記念館(旧尾崎記念会館)と一緒に建設された時計塔だ。「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄の業績を記念して、1960(昭和35)年に建設された。この時、公園はまだ完成していない。

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時計塔は鉄筋コンクリート造で、高さは31.5m。三つの柱が合わさった形は、立法・行政・司法の三権分立を象徴しているという。そういわれれてみれば、この塔を中心に、国会議事堂、霞ヶ関の官庁街、最高裁判所が配置されているようにも見える。

□塔の高さ「31.5m」の理由

ここで注目したいのは、時計塔の高さ「31.5m」である。

やや中途半端に見えるこの数値にはどのような意味が込められているのだろうか。

その理由を探ってみると、塔の前に置かれた銘板には、こう書かれている。

「塔の高さは、「百尺竿頭一歩を進む」ということわざの努力の上にさらに努力して向上するの意味から百尺(30.3メートル)より高くした31.5メートルに設定された」

立法、司法、行政が、それぞれ更なる進歩を目指して努力を重ねることを塔に象徴させたのであろう。

だが、100尺という数字そのものには、この時代ならではの意味もあった。

塔が完成した1960(昭和35)年当時、建築物の高さは最大31mに制限されていた。いわゆる「100尺制限」だ。

100尺制限とは、1920年に施行された市街地建築物法(建築基準法の前身)に基づく建築物の高さ制限で、住居地域は65尺、それ以外の地域は100尺に規制された。1931(昭和6)年にメートル法となり、65尺が20m、100尺が31mとなったが、戦後、市街地建築物法が建築基準法に再編された後も、この高さ制限は継承された。

時計塔が完成した1960年は、池田勇人内閣が「所得倍増計画」を発表し、高度成長期が本格化しようとしていた時期にあたる。その前年には東京オリンピックの開催も決定し、首都東京の都市改造もはじまりつつあった。

好景気が、旺盛なビル需要を生み、建物の大規模化が進んだ。ただし、31m制限の範囲内である。

それゆえ、高さ制限の撤廃を求める声も大きくなっていく。1960年当時、100尺制限は時代遅れの規制と見る向きが少なくなかったのである。

実際、同年には、建築家の丹下健三も高さ制限の撤廃を求める論文(注1)を発表し、建設省も撤廃に向けて研究を進めていた。超高層ビル時代の前夜のことだ。

「百尺竿頭一歩を進む」に含まれる「百尺」は、もちろん比喩ではあるのだが、当時のビルの高さの限界であった31m(100尺)制限を超えるとの意味も読み取ることができるだろう。

□川崎秀二が高さに込めた想い:15mから31.5mへ

時計塔の高さを決めたのは、尾崎行雄記念財団理事長だった衆議院議員の川崎秀二だ。

設計を担当した海老原一郎は、当初、時計塔の高さを15mとしていた。ところが川崎は15mでは低すぎると考えた。

「十五メートルでは丸の内はおろか霞ヶ関一帯でもその存在がわからない。そこで私は元来時計塔を建てる意義は、咢堂(注2)がやかましかった「会合時間の厳守」を周知させるためのものだから、十メートルや十五メートルの高さでは問題にならない。建築法の制限一杯まで伸ばすべき事を主張した」(「建設の思い出と忘れえぬ人々」『尾崎記念会館・時計塔建設記』5頁)。

川崎の言う「建築法の制限一杯まで伸ばす」とは先に見た31m制限のことである。ただし、ここで注意すべきなのは、当時の31m制限は屋根や壁のある「建築物」が対象で、時計塔のような工作物は規制の対象外であったことである。したがって、つくろうと思えば31mを大幅に上回るものも建設可能だった(高さ333mの東京タワーが建設できたのも工作物だったため)。

いずれにしても「100尺制限(31m制限)」を意識して塔の高さが決められたことは間違いないだろう。

最終的に決まった塔の高さ31.5mは、31m(100尺)を僅かに上回る。「それなら百尺竿頭一歩を進めるという事になり、進歩的思想を表現する事にもなる」(同上)と川崎は述べている。

つまり、塔の高さは、ことわざに由来するというより、100尺制限の数字が直接的な理由であり、結果的にことわざの意味にも符合したと考える方が自然なのかもしれない。

□「31m制限」はどうなったか?

最後に、31m(100尺)制限の行方について触れておきたい。

1963(昭和38)年の建築基準法改正で容積地区制度が創設。その翌年に東京で容積地区が指定された。これで環状6号線の内側では絶対高さ制限が撤廃となり、代わりに容積率制限が実施されることとなる。

同年、高さ72mのホテルニューオータニが完成し(注3)、1968(昭和43)年には高さ147m(最高部の高さ156m)の霞が関ビルが竣工した。超高層ビル時代の幕開けである。

霞が関ビルや西新宿の高層ビル群の影に隠れがちだが、国会前庭の時計塔は、100尺制限の時代から超高層の時代への転換を象徴する存在でもあったのである。

 

(注1) 丹下健三(1960)「都市計画関連諸法についての私見」『都市問題』51(11)、東京市政調査会、p84-92

(注2) 咢堂は、尾崎行雄の雅号。

(注3) ホテル・ニューオータニは、容積地区指定前に計画されたため、絶対高さ制限の例外許可(当時の建築基準法57条但し書き)で建設された。

 

□参考文献

久保作次編『尾崎記念会館・時計塔建設記』尾崎行雄記念財団、1961年

 

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高さ制限値45m・60mの由来

高度地区や景観計画で指定された高さ制限値を見ると、15m、20m、31mといった値が多く用いられている。

15mは風致地区でよく使用される数値であり(注1)、20m、31mは1970(昭和45)年の建築基準法改正で容積制が全面導入されるまでの間、用途地域にかけられていた絶対高さ制限値である(注2)。

これらの数値以外にも、主に商業地域の高容積エリアを中心として、45mや60mといった高層建築物を許容する数値を設定している自治体も少なくない。

例えば、45mを見てみると、高度地区では札幌市、山形市、文京区、目黒区、世田谷区、金沢市、名古屋市、大津市等で用いられており、景観計画では、川口市、各務原市、横浜市等で設定されている。なお、京都市では、45mの高度地区が商業地域・容積率700%のエリアにかけられていたが、2007(平成19)年9月の高度地区見直しで廃止され、31mに強化された(注3)。

一方、60mは、札幌市、新宿区、金沢市の高度地区で用いられている(横浜市は、第6種高度地区(高さ20m)の緩和の上限値として60mを設定)。

では、45mや60mという数値は、もともとどのようにして決められたのであろうか。

以下では、それぞれの数値が用いられてきた背景や由来を見ていく。

■45mの由来

45mの数値がはじめて建築法規に登場するのは、1963(昭和38)年の建築基準法改正による容積地区制度導入時である。

この法改正により、容積地区を指定した区域内においては絶対高さ制限ではなく容積率と道路・隣地斜線制限によって制限されることとなり、31mの絶対高さ制限を超える高層建築物の建築が可能となった。

柔構造理論の確立をはじめとする構造・施工技術の進歩によって、31m超の高層建築物の建設が技術的にも可能となっていたが、当時の建築法規は31mの高さをもとに構造基準を設定していたため、高層建築物に対応した構造基準を定める必要が生じていた(注4)。

だが、基準をすぐに設けることは困難であるため、建設大臣が建築基準法第38条の規定に基づいて個別に安全性を確認し、認定する方法がとられることになった。

認定審査の対象となる高層建築物としては、①建築物の高さが31m以上で、その構造形式が現行法規のたてまえによらないもの、②建築物の高さが45m以上のもの、とされた(注5)。

②の45mの根拠は、31mに塔屋部分として建設可能であった12mを加えた数値が45m程度であったことや、当時既に45m程度の高層建築物は建設されておりこれらについては従来の剛構造に基づく構造基準で対応可能であると判断がなされたことが考えられる(注6)。

一方、現行法の基準では対応できない建築物、つまり「柔構造でつくられる高さ31m超の建築物」と「高さ45m超の建築物」については、個別の案件ごとに「高層建築物構造審査会(注7)」の構造安全審査を受けて、建築基準法第38条の規定に基づき建設大臣の認定を得ることとされた。

しかし、法令の構造規定についてはほとんど改正がなされなかったため、1964(昭和39)年に日本建築学会により「高層建築技術指針」が作成された。

この技術指針は、高層建築物の設計、施工の指導書として活用されることとなったが、この指針の対象建築物が45m超の高層建築物であった。

以上から、構造上の基準として採用された45mが、後に1973(昭和48)年の京都市高度地区の都心部の高さ、横浜市高度地区の特例許可による緩和の上限値として用いられ、現在に至るわけである。

■60mの由来

建築基準法においてはじめて60mの数値が見られるのは、1980(昭和55)年7月に公布された改正建築基準法施行令においてである(いわゆる新耐震基準が示された政令)。

45m超の高層建築物については高層建築物構造審査会の構造安全審査を経て、大臣認定が必要であると先に述べたが、この政令改正によって大臣認定が必要とされる高さが45mから60mに引き上げられた。

なお、この規定は、2006(平成18)年の建築基準法改正で法第20条の構造耐力の規定に移されており、60m超の建物の構造計算の方法については国土交通大臣の認定が必要とされている。

1980年の新耐震基準の検討に際して、建設省は「新耐震設計法案」(昭和52年)や「建築基準法施行令・耐震関係規定改訂基準原案」(昭和54年)を作成し、また、学識経験者・構造設計実務家等から構成される「耐震建築基準委員会」を建設省内に設置している。

その議論の中で60mの設定理由について言及されている可能性があるものの、筆者は確認をとっていない。

耐震基準という性質上、60mという数値は、集団規定の観点ではなく構造上の観点から導出されたと推測される。

ただし、1973(昭和48)年に日本建築学会が発行した「高層建築技術指針(増補改訂版)」によると、斜線制限や容積制限の制約から、現実の敷地で建設可能な高さは20階前後にとどまるとの見解が示されていることから、20階×階高3mと仮定すると60mを導き出すことができる。

また、特別避難階段設置が義務付けられる15階に階高を4mと仮定すると、15階×4m=60mになる。

60mの設定根拠としては、以上のような理由が考えられるものの、あくまでも推測に過ぎない。

一方、他法令を見ると、航空法において60mという数値が見られる。

航空法第51条の航空障害等設置義務の規定には、「地表又は水面から六十メートル以上の高さの物件の設置者は、(中略)当該物件に航空障害灯を設置しなければならない。」とある。

この規定は、1960(昭和35)年6月1日改正の航空法改正で追加された条文であるが、一般の建築物ではなく電波塔や発電所・工場等の煙突といった工作物を想定していたものと考えられる。

というのも、当時の建築基準法には、まだ用途地域における31mの絶対高さ制限が残っており、60m超の建築物は国会議事堂を除き存在していなかったのである。

例外許可により建設されていた31m超の建物でも45m程度が限界で、60mには及んでいない。

なお、31mを超える高層建築物の建設が例外許可を要せず建設できるようになったのは、容積制による特定街区制度が創設された1961(昭和36)年の建築基準法改正後である。

[注]

(1)風致政令(風致地区内における建築等の規制に係る条例の制定に関する基準を定める政令)において、風致地区内における高さ制限値は8mから15mの範囲内で定めると規定されている。この15mは、生長した高木によって建物がほぼ隠れる高さとして決められたとされる(神奈川県都市部都市公園課(1994))。

(2)1970年の建築基準法改正まで行われていた用途地域の絶対高さ制限(20m、31m)の由来については、「市街地建築物法における絶対高さ制限の成立と変遷に関する考察-用途地域の100尺(31m)規制の設定根拠について-」(土地総合研究2008年冬号)を参照。

(3)京都市の高度地区については、「京都市における高度地区を用いた絶対高さ制限の変遷」(土地総合研究2010年夏号)を参照。

(4)1962(昭和37)年8月11日に建設省住宅局長から日本建築学会に対して「現行の高さ制限の改廃とそれに伴い必要とする法的措置について」諮問され、同年10月29日に建築学会から建設省に答申された。

それによると、高層建築物については以下のような見解が示されている。

「現行法においてはおおむね現行高さの制限を想定して諸規定が組立てられているので、早急に高層建築物に関する関係規定の整備が必要である。しかし、この種建築物の実例及び施工経験が少ない現段階においては、一般通則的な規定をただちに設定することは困難であると思われるので、当分の間は建築物の設計・施工法につき個々に審査指導する方途を考慮する必要がある。」(「建築物の高さ制限に関する本会の所見発表まで」『建築雑誌1962年12月号』)

(5)梅野(1965)p24

(6)当時の建築基準法第57条第1項には用途地域における絶対高さ制限(31m、20m)が規定されていたが、但し書きとして、「ただし、次の各号の一に該当する場合において、特定行政庁の許可を受けたときは、この限りでない。 一 建築物の周囲に広い公園、広場、道路その他の空地がある場合等であつて、交通上、安全上、防火上及び衛生上支障がないと認める場合」とあり、周辺に空地があれば特例許可により、31m超の建築物の建設は可能であった。

実際に、1953(昭和28)年には大阪第一生命ビル(高さ41.23m、12階)、1954(昭和29)年には渋谷東急デパート(高さ43m、11階)が完成している。

また、同時期に東京駅八重洲口に高さ47.8m、12階の鉄道会館が計画されていたが、なかなか許可が下りず、1954(昭和29)年に6階部分までが完成し開業したが、全体は1968(昭和43)年に竣工している。

(7)高層建築物構造審査会は、1964(昭和39)年9月に建設省に設置されたが、1965(昭和40)年8月に財団法人日本建築センターの設立とともに、審査会は日本建築センターに移管されている。当時の審査会の委員は15名で組織され、毎月1回開かれていたという。個々の審査にあたっては部会が設けられ、その都度専門委員が委嘱されていた。

[参考文献]

○梅野捷一郎(1965)「高層建築物構造審査会報告(その1)」『建築行政14(71)』、建築行政協会、p24‐27

○神奈川県都市部都市公園課(1994)『風致地区のあり方に関する20項目の提言:環境と共生した美しき都市の創造のために』神奈川県

○日本建築学会(1973)『高層建築技術指針 ―増補改訂版』日本建築学会

○大澤昭彦(2008)「市街地建築物法における絶対高さ制限の成立と変遷に関する考察-用途地域の100尺(31m)規制の設定根拠について-」『土地総合研究16(1)』、財団法人土地総合研究所、p51-61

○大澤昭彦(2010)「京都市における高度地区を用いた絶対高さ制限の変遷」『土地総合研究18(3)』、財団法人土地総合研究所、p181-210

容積率制度の制定経緯について

先日発行された「土地総合研究2011年冬号」で、容積率制度の歴史的経緯に関する論文を執筆しました。

タイトルは、「日本における容積率制度の制定経緯に関する考察(その1) ―容積制導入以前における容量制限:1919年~1950年―」です(土地総合研究19(1)2011年冬号、p83-105)。

この論文は、1919(大正8)年の市街地建築物法(現在の建築基準法の前身)から1970(昭和45)年に現在の容積率制度が確立するまでの約50年間を対象に、建築物のボリュームコントロールに関する制度の変遷とその背景について整理、考察したものです。

3回に分けて掲載を予定しており、今回は、1919年(大正8)の市街地建築物法制定から1950(昭和25)年の建築基準法制定までを扱っています。

この時期には、まだ容積制が導入されておらず、主に絶対高さ制限に基づきボリュームコントロールが実施されていました。

しかし、この時代の規制内容は、後の容積率制度の内容に多大な影響を与えることから、詳細に整理しております。

その2では、戦後復興から高度成長期に向かう1950年代を対象に、絶対高さ制限の見直しや容積制導入に向けた議論が活発化していく過程を追っていきます。

さらにその3では、1961(昭和36)年の特定街区制度創設、1963(昭和38)年の容積地区制度創設を経て、1970(昭和45)年に容積制が全面導入されるまでの過程を見ていきます。最後に、容積率制度の制定経緯の整理から明らかとなった容積制の課題と今後の展望についてもまとめる予定です。

以下、論文執筆の背景を簡単に記しておきます。

 

■容積率制度が有する課題

容積率制限は、建築物の床面積と道路・下水道等の公共施設の容量との均衡を図ることを目的とした都市の密度規制の一手法で、1970年の建築基準法改正で現在の容積制の枠組みが確立されました。

しかし、ここ数十年に渡る容積率の規制緩和の結果、容積率はある種の経済価値を表す指標としての意味合いが強くなり、本来の目的を見失っているように見受けられます。

 

現在、国は「集約型都市構造の実現」を標榜し、いわゆるコンパクトシティを望ましい姿として位置付けているようです(国土交通白書平成21年度版)。

集約型都市構造を前提に容積計画を考えると、都心の密度を高める一方で、郊外部の容積を抑えることが必要です。

しかし、現実には、現状の容積率が既得権益化し、現状の指定容積率を下げることは難しいと言われています。

また、容積率の緩和制度が、周辺市街地の形態から大きく乖離した高層建築物の建設を可能とし、全国各地において建築紛争を招いています(高度地区や景観計画を活用した絶対高さ制限導入の動きは、こうした容積制の欠点を補完するための取り組みと言えるでしょう)。

その一方で、斜線制限や狭小化した敷地等においては、指定容積率が十分に消化できないために、都心の高密化が進まないという現状も指摘されています。

 

なお、容積率制度の課題については、西村幸夫・東京大学教授が、「都市計画 根底から見なおし新たな挑戦へ」(学芸出版社)の中で明快に整理されておりますので、是非ご参照下さい。

■人口減少時代に向けた容積制のあり方を考えるために

容積率制度自体は、市街地の拡大や人口増加を前提とした時代に作られた制度です。

本格的な人口減少社会を迎える今、容積率制限はどうあるべきなのか、その必要性も含めて議論をする時期にあると思われます。

容積制のあり方、ひいては市街地の形態・密度のあるべき姿を考える前提として、現在の容積制が成立した背景を再確認する必要があるのではないでしょうか。

今回の論文がその一助となれば幸いと考えております。

 

【追記】論文のPDF版を土地総合研究所のホームページから見ることができます。下記URLからご覧下さい。

その1:http://www.lij.jp/html/jli/jli_2011/2011winter_p083.pdf

その2:http://www.lij.jp/html/jli/jli_2011/2011summer_p046.pdf

なお、その3については執筆中です。

その1からその3までの内容は、拙書「高さ制限とまちづくり」の「第1章 高さ制限の歴史的変遷」の中でもまとめています。

よろしければご一読ください。

「高さ制限とまちづくり」学芸出版社、2014年