【講演の案内・5/23】 超高層ビルは都市をどう変えたか ~霞が関ビル誕生から50年~

講演の案内です。よろしければご参加ください。当日は充実した資料を配布したいと考えています。

(日比谷カレッジ)超高層ビルは都市をどう変えたか ~霞が関ビル誕生から50年~

開催日時:2018年5月23日(水)午後7時~午後8時30分
開催場所:日比谷図書文化館(日比谷公園内) 地下1階 日比谷コンベンションホール(大ホール)
定員:200名(事前申込順、定員に達し次第締切)
詳細・申込:日比谷図書文化館ホームページ
参加費:1,000円(千代田区民500円*千代田区民の方は住所が確認できるものをお持ちください。)
お問い合わせ:日比谷図書文化館 03-3502-3340(代表)

<内容>
日本の超高層ビル時代を切り拓いた霞が関ビルの誕生から50年。高層オフィスビルやタワーマンションのある風景は今や日常となっています。都内だけで高さ100m超の高層ビルは400棟を数え、半世紀を経て都心のスカイラインは大きく変貌しました。東京五輪を控え、超高層ビル開発は今なお活発です。
本講演では、高層ビルの歴史や世界の超高層化の動向を踏まえながら、日本で超高層ビルが生まれた経緯や社会的背景とともに、超高層ビルが都市環境や人びとの生活に与えてきた影響、さらには人口減少時代における超高層ビルのあり方について語ります。

<講師プロフィール>
講師:大澤 昭彦(高崎経済大学地域政策学部准教授)
1974年生まれ。東京工業大学大学院社会理工学研究科社会工学専攻博士課程修了後、財団法人土地総合研究所研究員、東京工業大学大学院総合理工学研究科助教を経て現職。博士(工学)。専門は都市計画、景観計画。関連する著書・論文に「高層建築物の世界史」(講談社現代新書、2015年)「高さ制限とまちづくり」(学芸出版社、2014年)、「超高層ビルと持続可能性」(BELCA news28(156)、2016年)、「人類はなぜ高層建築に挑むのか」(「バベルの塔展」公式ガイドブック、2017年)等。

<関連ページ>

霞が関ビルは日本初の超高層ビルか?

朝日新聞2018年4月12日「「日本初の超高層」霞が関ビル、見下ろし見上げて50年」

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霞が関ビルは日本初の超高層ビルか?

日本で初めてつくられた超高層ビルは何か。おそらく多くの人が、1968(昭和43)年に竣工した霞が関ビル(高さ147m)を挙げるのではないか。

ところが、「日本初」を自認する超高層ビルは少なくとも三つ存在する。

完成順に、ホテル・ニューオータニ、ホテル・エンパイア、霞が関ビルである。いずれも1960年代に竣工した高層ビルだ。

各ビルの施工を担当したゼネコンが、それぞれ「日本初」を主張している。以下でその内容を確認し、どれが日本初の超高層ビルなのかを明らかにしたい。

 

■ホテル・ニューオータニ:戦後初の60m超ビル

ホテル・ニューオータニは、1964(昭和39)年9月に最高高さ72m(軒高61.24m)、17階建ての高層ビルとして完成した。

Hotel NewOtani

ホテル・ニューオータニ(出典:「近代建築」1964年10月号)

1964(昭和39)年の東京オリンピックに向けてつくられた主に外国人客のためのホテルで、当時としては珍しかった回転式展望レストラン(スカイラウンジ)が設置されたことでも知られる。

ホテル・ニューオータニ完成前まで、国内で最も高い高層ビルは、高さ65.45mの国会議事堂だった(1936年竣工。東京タワーや原町無線塔などの工作物を除くとビルとしては当時日本一)。ホテル・ニューオータニは、戦後初めて国会議事堂の高さを超えるビルとして誕生したわけだ。

ここで、施工を担当した大成建設による記述をいくつか見てみよう。

 

「なにしろ初めての超高層建築ですので、当社設計部・技術研究所・ホテル東京オータニ作業所の三者でチームを編成し、新しい工法や材料についての調査研究、各種実験を行ない、データの不備を補いつつ工法を決定し、工事を進めています」(『大成クォータリー(12)』1964年)

「わが国第1号の超高層建築、それも延102,500㎡に及ぶ巨大なホテルを、東京オリンピックに間に合わせるため、設計期間を含めてわずか17カ月で完成させた」(『大成クォータリー(15)』1965年)

 

はっきりと「初めての超高層建築」「わが国第1号」と謳われている。

「新しい工法」とは、柔構造を用いた高層建築という意味だが、柔構造こそ超高層ビルの実現に欠かせない技術だった。大成建設が日本初と表現したのも、この点を根拠とするものだ。

しかし、このビルを「超高層ビル」と表現するには違和感を持つ人がいるかもしれない。

というのも、超高層ビルといえば、マンハッタンのエンパイア・ステート・ビルやクライスラー・ビルのように、細長いタワー状の形を想像する人が多いと思われるからだ。

だが、ホテル・ニューオータニは3つの板状の建物をつないだ三ツ矢状のものであるため、空に伸びる垂直性は感じられない。

その点、垂直性を強調した超高層建築として誕生したビルがホテル・エンパイアだった。

 

■ホテル・エンパイア:法制度から見た「日本初」

1965(昭和40)年竣工のホテル・エンパイアは、当時「日本のディズニーランド」とも称された横浜ドリームランド内に設けられたホテルだ(現在、横浜薬科大学校舎)。

Hotel Empire

ホテル・エンパイア(出典:「近代建築」1965年6月号)

ホテル・エンパイアを直訳すれば「帝国ホテル」だが、もちろん日比谷の帝国ホテルとは関係がない(なお、帝国ホテルの英語表記はImperial Hotel)。この名前は、当時世界一の高層ビルだったエンパイア・ステート・ビルにあやかったのかもしれない。

仏塔のような多層塔の形をした高さの高層ビルで、その高さは21階建ての77m、相輪部分を含めると93mに及ぶ。

「21階」という高さは、施主であるドリーム観光の社長が決めた。ドリームランドの名前に込められていた「21世紀へ架ける夢」に由来する。

最高高さ93mのホテル・エンパイアは、ホテル・ニューオータニを20m以上上回るものの、完成は1年ほど遅い。それではなぜ日本初の超高層ビルなのか。ここで施工者である大林組の記述を見てみよう。

 

「ホテルエンパイアは、霞ガ関ビルにさきがけ建設省高層建築物構造審査会の審査を通過した日本における超高層建築第一号である。」(『大林組八十年史』p397)

「地下2階、地上21階、高さ77.7mという規模は、階数においても高さにおいても、現在の日本では最高であつて、構造設計については建設省の「高層建物【※原文ママ】構造審査会」の審査を通過して本格的な超高層建築第1号である」(「ホテルエンパイアの設計々画」『建築界14(6)』栄木一成(1965)p.74)

 

高層建築物構造審査会の審査を通過した超高層ビルとしては第1号と読み取れる。これはどういうことか。

まず、当時の法規制の状況を確認したい。日本では1919(大正8)年に制定された市街地建築物法以来、建築物の高さは住居地域で20m、商業地域等では31mに制限されていた。戦後、市街地建築物法が建築基準法に変わった後もこの規制は継承され、超高層ビルは厳しく制限されていた。

その後、1963(昭和38)年の建築基準法の改正で、一部エリアで絶対高さ制限が撤廃されることになった。容積地区制度が新設され、その区域内では絶対高さ制限の代わりに容積率制限で建築物の規模をコントロールすることになったのである。法律上、超高層ビルの建設が可能となった。

ところが、建築基準法上の建築構造の基準は従来の建物(高さ31m以下。最大でも45m程度まで)を前提としたままだった。超高層ビルの構造技術は進歩の途上にあり、構造の基準が確立されるまでには至っていなかったのである。

そこで建設省は、1964(昭和39)年に建築構造の専門家で構成される「高層建築物構造審査会」を設置。審査会が超高層ビルの構造設計を一件ずつ審査し、構造上問題ないと認めたものを建設大臣が認定するという手続きが設けられた。

ホテル・エンパイアは、この手続きに基づき建設された初めて超高層ビルだった。つまり、「法制度から見た超高層ビル」という条件では第1号と位置付けることができるだろう。

 

■霞が関ビル:日本初の100m超ビル

ホテル・エンパイアは垂直性を備えた塔状の高層ビルではあるものの、高さは100mに届かない。

日本で初めて100mを超える高層ビルが、1968(昭和43)年4月に竣工した霞が関ビルだった。高さは147m(塔屋を含めて156m)。147mはエジプトのギザにあるクフ王のピラミッドと同じだ。

KasumigasekiBuilding

霞が関ビル(出典:鹿島建設HP)

 

では、施主である三井不動産や施工を担った鹿島建設は、どのように「日本初」と表現しているのだろうか。

 

「霞が関ビルはここにようやく完成し、わが国超高層ビルのパイオニアとなった」(江戸英雄三井不動産社長日刊工業新聞1968年4月13日)

「超高層ビル第一号:三井不動産(株)の霞が関ビルは、霞が関官庁街に接する虎ノ門の一角、約一万六〇〇〇平方メートルの敷地に建設されたオフィスビルディングで、わが国初の本格的超高層建築である」(『鹿島建設百三十年史(下)』p.879)

 

ここでポイントになるのは「超高層ビルのパイオニア」「本格的超高層建築」という言葉だろう。では、どういった意味で「パイオニア」であり「本格的」なのだろうか。少なくとも次の三点が指摘できる。

 

一つ目は、取りも直さず100mの大台を超える日本で初めての超高層ビルであることである。しかも最高高さ156mは、ホテル・ニューオータニ(72m)の2倍強に及ぶ。

当時の東京は、31m規制が撤廃されたばかりということもあり、東京のスカイラインから突出して浮き出て見える建造物は、霞が関ビルや東京タワー等の鉄塔くらいのものだった(1)。霞が関ビルは東京の新たなランドマークとなったのである。

また、この年に日本は西ドイツを抜いてGNP世界2位に躍り出た。これまでの規制のくびきから解き放たれたかのように空に聳える霞が関ビルは、右肩上がりで経済成長を続ける日本のシンボルともなった。

 

二つ目は、超高層ビルの祖ともいえる建築構造学者、武藤清の存在である。東大教授を経て、鹿島建設副社長に迎え入れられていた武藤は、霞が関ビルの構造設計で中心的な役割を担った。鹿島建設が武藤を副社長として引き入れたのは、武藤抜きに100mを超える高層ビルは実現できないと考えていたからに他ならない。

先ほど、ホテル・ニューオータニが柔構造によって高さ72mのビルを実現させたと述べたが、超高層ビルの柔構造理論は、武藤清がいたからこそ確立できたのである。1959(昭和34)年、武藤を委員長とする「建築物の適正設計震度の研究委員会」が設置され、約3年後の1962(昭和37)年3月に「建築物の適正設計震度に関する研究:超高層建築への新しい試み」としてとりまとめられた(2)。この報告書では、地震国日本であっても、柔構造を用いることで高さ25階の超高層ビルも実現可能との見通しが示された。つまり、この委員会報告から日本の超高層ビルが生まれたといっても過言ではない。

 

三つ目は、霞が関ビルがその後の超高層ビルのプロトタイプとなった点である。構造、施工、材料、都市計画、プロジェクトの組織体制など、多様な観点から説明する必要があるが、ここでは都市計画の観点に絞って見てみたい。

前述のホテル・ニューオータニやホテル・エンパイアは、いずれも広大な敷地の中につくられた。つまり、敷地の外側に広がる市街地環境への影響をあまり意識する必要がなかった。だが、都市の中でこのようなゆとりのある敷地はそれほど多くない。いわば特殊な例であった。

これに対し霞が関ビルは、市街地内の敷地である。隣接敷地を含めた周辺環境への影響を無視して設計するわけにはいかない。

31m規制時代のビルは、高さが抑えられていた分、建蔽率が大きく、建物周りにオープン・スペースがほとんど取られていなかった。それゆえ、採光や通風の阻害、歩行・広場スペースの不足といった問題を抱えていた。その反省から、霞が関ビルでは超高層化する代わりに敷地面積の72%が空地となった。

こうしたタワー・イン・ザ・パーク型超高層ビルの原点は、ル・コルビュジエが提案した「300万人のための現代都市」(1922年)に遡ることができる。60階建ての超高層ビルを林立させて300万人を収容する高密都市を実現する一方、建蔽率をわずか5%(空地が95%)に抑えることで、都市に太陽と緑、きれいな空気をもたらすことができるというものであった。戦後、コルビュジエ的な高層都市を理想とする風潮が世界的に広がる中で、霞が関ビルが日本における嚆矢となったのである。

 

■日本初の超高層ビルとは?

最後に、日本初の超高層ビルは何かを整理してみよう。

ホテル・ニューオータニは、柔構造を用いた高層ビルであり、戦後初めて60mを超えるビルという点で日本初であった。

一方、ホテル・エンパイアは絶対高さ制限の撤廃に伴って設置された「高層建築物構造審査会」の審査を経て、大臣認定を受けたビルとして日本初の超高層ビルだった。

霞が関ビルは、なんといっても100mという大台を超えた初めてのビルだったこと、さらには、建物の周りに広い空地を設けたタワー・イン・ザ・パーク型超高層ビルを市街地内に建設し、その後の超高層ビルのプロトタイプとなった点で日本初ということができる。

以上からわかるように、日本初の超高層ビルかどうかは、「何をもって超高層ビル」とするか、その定義によるということに尽きる。1960年代の高度成長期、超高層ビルに対する社会的・経済的要請を背景に、それを実現する技術の進歩や法改正が、ホテル・ニューオータニやホテル・エンパイアとして結実し、霞が関ビルで本格的に開花したといえるだろう。

 

2018(平成30)年4月、霞が関ビルの完成から50年を迎えた。半世紀を経て、霞が関ビルの高さを上回る超高層ビルは、日本国内で194棟を数える(CTBUHデータベースをもとに算出)。

超高層ビルがつくってきた都市を振り返り、この50年を評価する時期に来ているのかもしれない。

 

表 三つの超高層ビルの比較(建物データは完成当時のもの)

ホテル・ニューオータニ

ホテル・エンパイア

霞が関ビル

竣工年月

1964年8月

1965年3月

1968年4月

施主

大谷観光KK

日本ドリーム観光株式会社 三井不動産株式会社

施工

大成建設

大林組

鹿島建設,三井建設

軒高(最高高さ)

60.84m(72.09m)

77.7m(93m)

147m(156m)

階数(地上)

17階

21階

36階

階数(地下)

3階

2階

3階

建築面積

9,470㎡

871㎡

3,567㎡

延床面積

102,500㎡

8,194㎡

153,224㎡

建物タイプ 板状型 多層塔型

タワー型

 

[注]

(1)1968(昭和43)年当時、東京における高さ100mを超える建造物としては、霞が関ビル、東京タワーのほかに、NHKの電波塔(紀尾井町、高さ178m)、日本テレビの電波塔(番町、高さ154m)、TBSの電波塔(赤坂、173m)があった。

(2)この研究は、国鉄の重要技術課題として昭和34年度から昭和36年度にかけて実施。もともとは、国鉄総裁の十河信二が1958(昭和33)年に東京駅丸の内駅舎(赤レンガ駅舎)を24階建て高層ビルに建て替える計画案を発表し、その実現可能性を検討するために国鉄が「建築物の適正設計震度の研究委員会」を設置した。1963(昭和38)年に十河信二が総裁を退任したことや、東海道新幹線の建設に注力していた国鉄に財政的な余裕がなかったことなどから、東京駅丸の内駅舎高層化計画は自然消滅した。

 

[参考文献]

大成建設編(1964)『大成クォータリー(12)』大成建設

大成建設編(1965)『大成クォータリー(12)』大成建設

大林組社史編集委員会編(1972)『大林組八十年史』大林組

白杉嘉明三(1968)『回顧70年:大林組とともに』大林組

栄木一成(1965)「ホテルエンパイアの設計々画」『建築界14(6)』理工図書

鹿島建設社史編纂委員会編(1971)『鹿島建設百三十年史(下)』 鹿島研究所出版会

霞が関ビル建設委員会監修(1968)『霞が関ビルディング』三井不動産

なぜ皇居濠端の高層ビルは「100m」になったのか?

皇居外苑から丸の内の超高層ビル群を眺めると、高さ100mから200m級のビルに囲まれて窮屈そうに収まっているレンガ色の建物がある。

高さ99.7m、25階建ての東京海上ビルだ。

marunouchi-skyline.jpg
丸の内のスカイライン(中央のレンガ色のビルが東京海上ビル)

東京海上ビルの完成は1974(昭和49)年。だが、計画自体はその10年ほど前から検討されていた。しかも、当初の計画では、建物の高さは100mではなく、128m、30階建てだった。

計画当時、日本国内に100mを超える高層ビルは存在していない。しかも、建設場所が皇居の濠端だったため、東京海上ビルの超高層化は、皇居の美観を損ねるとして問題視された。いわゆる「丸の内美観論争」である。

美観論争を経て、東京海上ビルは高さを減らして約100mで完成。その後、大手町、丸の内で濠端に面する敷地では、不文律のように高さ100mのビルが建っていくことになる。

それでは、なぜ128mから100mに変更されたのか、また誰が100mに決めたのか、長年分からないままだった(少なくとも私が探した限り、これに言及した文献はなかった)。

ところが、最近たまたま目にした本に、「100m」に決まった経緯が書かれていた。

今里広記「私の財界交友録:経済界半世紀の舞台裏」(サンケイ出版、1980年)の中で、丸の内美観論争についてふれられていたのである。

以下では、まず丸の内美観論争の経過を簡単に説明した上で、高さが100mに決まった理由について述べてみたい。

 

■丸の内美観論争の経緯

1966(昭和41)年、丸の内の濠端に立つ東京海上ビルを超高層ビルに建て替える計画が公になると、マスコミ、学界、建築関連団体のみならず、国会を巻き込んで議論を呼んだ。

肯定的な意見としては、敷地内に広場を持つ超高層ビルは、都市に太陽と緑をもたらし、新しい都市のシンボルになり得るといったもの。一方、否定的なものとしては、皇居や丸の内の景観に調和しない、皇居を覗き込むような高層ビルは不敬であるといった意見である。当時の佐藤栄作首相は「どうも好ましくない」と反対の立場をとった。

同じく反対の姿勢を示したのは東京都である。

建築確認申請を受けた東京都は、なかなか建築確認を下ろさず、美観地区条例をつくって規制をかけようと試みた。当時、皇居周辺には都市計画法に基づく美観地区が指定されていたが、具体的な規制はかけられていなかった。建築規制を行うには建築基準法に基づく条例を制定する必要があったため、高さ等を規制する条例をつくろうとしたのである。

また、丸の内地区の大地主である三菱地所も東京海上ビルの超高層化に反対した。当時、「丸ノ内改造計画」(1959年)に基づき、赤煉瓦ビル街を建替えて、軒高31mで揃った大規模ビルがつくる街並みへの更新を進めていたためである。

論争が起きて1年ほど経過した1967(昭和42)年11月、反対していた東京都が建築確認を下ろした。同年4月に都知事に就任した美濃部亮吉が建築確認を下ろさない合理的な理由がないと判断したことによる。既に美観地区条例案は自然消滅していた。

ただ、東京都が建築確認を下したとしても、超高層ビルの場合は建設大臣の認定がなければ着工することはできなかった。

当時は日本の超高層ビルの黎明期。未知の高さを持つ建築物であるため、構造の基準がはっきりと定まっていなかった。そこで、専門家で構成される「高層建築物構造審査会」が一件ずつ安全性を確認した上で、建築基準法第38条に基づき建設大臣が認定をする形が取られていた。

この時の建設大臣は保利茂だった。1968(昭和43)年11月には坪川信三に替わったが、両大臣とも認定手続を進めず、事態は膠着したまま時間だけが過ぎていった。結局、反対していたのが、「直属の上司」である佐藤栄作だったことによる。

ところが1970(昭和45)年9月に根本龍太郎建設大臣が認定書を受領、12月に工事が着工され、1974(昭和49)年3月に東京海上ビルは完成を迎えた。

東京海上ビル建替えが計画されてから既に約10年が経過していた。しかも、当初高さ128m、30階建てだったものが、100m、25階建てに縮小されていたのである。

 

■佐藤栄作首相への直談判

それではなぜ、128mから100mになったのか、また、誰が100mに決めたのか。

その答えが、冒頭に述べた今里広記の「私の財界交友録:経済界半世紀の舞台裏」に記されているので、それを紹介したい。

ただ、今里広記と聞いても、ピンとこない人が多いかもしれない。

今里は、日本精工の社長を務めた実業家であり、何より日本の財界に幅広い人脈を持っていた。何かしら問題が起こると調整役として担ぎ出されるほど、財界から厚い信頼を受けていた。

財界主導で進められた世界貿易センタービルとサンシャイン60の建設には、今里が多大な役割を果たしている(これらについては別の機会に記したい)。

丸の内美観論争が起きた際も、その信頼の厚さゆえに東京海上火災から調整を依頼された。今里は、美観論争が収束するまでの流れを知る立場にあったわけである。

 

今里は、まず高層ビルに反対の立場をとっていた佐藤栄作に直談判した。

総理は、「天皇陛下のお住まいをのぞくわけにはいかないからね」と従来の答えがそのまま、はね返ってきた。
「じゃあ、ひと足先にできているホテルニューオータニはどうなんですか。あそこからも、皇居はよく望めますよ」
負けずに、私も反論していった。 (今里広記「私の財界交友録」)

ホテル・ニューオータニは、1964(昭和39)年の東京オリンピックにあわせて、紀尾井町に建設された高さ72m、17階建ての高層ビルだ。当時、ビルとしては日本一の高さを誇っていた。

今里の反論に、佐藤栄作はこう返した。

「オータニは今里君、裏口じゃあないか。丸の内の東京海上とは違うからね・・・・・・・」
何と、ホテルニューオータニは皇居から見て、裏口だからという論法である。私はふきだしたくなったが、そこはじっと我慢して、「総理、お言葉を返すようですが、どっちが正面で裏口かは決まっているものでもないと思いますが・・・・・」とやり返したが佐藤首相は憮然としたままであった。(同)

 

■「100m」の理由:川島私案

今里は、認定の権限を持つ建設大臣にも直接アプローチし、佐藤栄作の説得を依頼した。

だが、保利茂も、続く坪川信三も佐藤を説き伏せることができなかった。そこで、彼らが白羽の矢を立てたのが、自民党副総裁の川島正次郎だった。党のご意見番である川島は、佐藤栄作が首相になったときに大きな功績があったことでも知られる。佐藤を説得できるのは川島しかいないとの判断が働いたのだろう。

しばらくすると、川島が「私案」を携えて今里のもとを訪れた。この「川島私案」が、東京海上ビルを巡る丸の内美観論争の解決策となる。

それは、32階建を25階建にすれば、佐藤栄作を説得できるというものだった。

佐藤は、「東京海上ビルもホテル・ニューオータニと同じ十七階にするのなら構わない」と周囲にもらしていた。そこで川島は一計を案じた。

「東京海上の三十二階、佐藤首相の十七階―これを足して二で割ると、二十五階になるではないか。これで双方とも円くおさまる」(同)

ただ、ここで注意する必要がある。東京海上ビルの当初案は、32階ではなく、30階である。30階と17階を足して2で割ると、24階となる。実際に建ったビルは25階だ。

しかし、階数ではなく地上高さを見ると、東京海上ビルが128m、ホテル・ニューオータニが72m。足して2で割ると、ちょうど100mとなる。

そして、東京海上サイドは高さ100mに計画を変更して構造確定申請書を東京都に提出。すぐに建設省に回り、認定が下りた。

川島私案によって事はあっさりと進展した。

 

■不文律となった「100m」

東京海上ビルは1974(昭和49)年3月に竣工。その後、濠端には、示し合わせたかのように100mの超高層ビルが次々と建てられた。

サンワ東京ビル(1973年、高さ99.7m)、大洋漁業ビル(1978年、高さ99.95m)、三井物産本社ビル(1976年、高さ100m)など、100mは不文律として機能していった。

その後、大手町・丸の内・有楽町地区では、自主的な街のルールである「ゆるやかなガイドライン」が1998(平成10)年2月に策定され、その中にスカイラインの考え方が示された。

基本的に皇居を中心にすり鉢状のスカイラインを描くというもので、濠に面した部分は約100m程度、皇居から離れるほど高くなり、150mから200mまで可能とされた。この内容は、2000(平成12)年8月に策定された「大手町・丸の内・有楽町地区まちづくりガイドライン」に継承され、現在に至る(ガイドラインはその後改訂され、最新版は2014年に公表)。

皇居濠端の高さ100m基準は、いまや地域のルールとして共有されている。

だが、この数値に明確な根拠はない。景観工学や都市計画的な観点から決められたわけではなく、「足して2で割る」という政治的な決着で生まれたのである。

もちろん根拠が明確でなければ意味がないというわけではない。根拠が不明確でも、長い時間をかけて規範として共有されることもあるからだ。

しかし、この件に限らないが、現在使われている基準を金科玉条のように扱うことにはやや違和感がある。今ある基準をアンタッチャブルな前提とするのではなく、規制値が定められた経緯や理由を知った上で、その意味や必要性を吟味することが求められるのではないか。

法制度や規制の歴史を研究する意義もそこにあると考えている。

 

<参考文献>

今里広記(1980)『私の財界交友録:経済界半世紀の舞台裏』サンケイ出版

大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり懇談会(2014)『大手町・丸の内・有楽町地区まちづくりガイドライン2014』

大澤昭彦(2015)『高層建築物の世界史』講談社(講談社現代新書)

 

世界遺産サンクト・ペテルブルクにおける超高層ビル論争 ~国家的プロジェクトと景観問題~

今回は、ロシアの古都サンクト・ペテルブルクで起きた超高層ビル論争を紹介したい。

サンクト・ペテルブルクは世界遺産に登録された歴史都市である。

その近接地に高さ396mの超高層ビルが計画され、歴史的景観にそぐわないとして問題となった。

しかし、この超高層ビルは、プーチンやメドベージェフといった新旧大統領が大きく関わる政府系企業・ガスプロムネフチの本社ビルとして計画された。いわば「国家プロジェクト」としての超高層ビル開発だったために問題は複雑となった。

以下で、その経緯や問題の論点を見ていきたい。

■サンクト・ペテルブルクの歴史地区と世界遺産登録

サンクト・ペテルブルクは18世紀初頭から1917年のロシア革命まで、ロシア帝国の首都であった。
ソ連時代にレニングラードと改称されたが、1991年のソ連崩壊後、元の名前に戻された。

市中心部の歴史地区には、ピョートル大帝(位1682~1725年)がイタリアなどの建築家を招いてつくった宮殿や教会等の壮麗な建築物群が残されている。

その歴史的な価値が認められ、1990年には世界遺産に登録された。

地区内の景観を保全するため、地区内の建物は、世界三大美術館の一つ、エルミタージュ美術館(冬の宮殿)の高さを超えないように規制されている。

その結果、歴史地区では整然とした街並みが保たれているのである。

■政府系企業による高さ396mの超高層ビル開発

2006年、その歴史地区の景観を大きく揺るがす超高層ビルの計画が明らかとなった。

ロシアの政府系天然ガス企業「ガスプロム」がサンクト・ペテルブルク市と共同で高さ396mの「ガスプロム・シティ」の建設を発表したのである。

当時、ガスプロムは、世界的な石油・天然ガス価格の高騰によって業績を拡大させていた。

その傘下企業、ガスプロムネフチの本社機能ビルとして計画されたのが、この超高層ビルだった。

サンクト・ペテルブルクは、ウラジミール・プーチン大統領の出身地である。そのため、このビルは「プーチン・タワー」とも揶揄されることとなる。

市の全額負担による建設への反発

建設計画が明らかになると、建設費用の捻出方法が問題視された。

サンクト・ペテルブルク市が建設費用を全額拠出し、完成後、ガスプロムネフチの所有になると発表されたため、世論の不評を買った。

市としてみれば、国内有数の企業を受け入れることで、税収の増加や再開発による経済効果を見込んだのだろう。

しかし、市の財源を一企業のために利用することへの反発は大きかった。

そこで、2007年6月、市の全額出資ではなく、ガスプロムネフチが51%、市が49%に変更された。

さらに、プロジェクトの名称も、一企業の名を冠した「ガスプロム・シティ」から、開発予定地の地区名である「オフタ・センター」へと変更されることとなった。

高層ビルが与える歴史的景観への影響

だが、問題はそれだけにとどまらなかった。

計画区域が世界遺産の歴史地区に隣接しており、高層ビルが歴史的景観に与える影響が懸念されたのである。

市内の高い建物といえば、ペトル・パウェル大聖堂(122.5m)や聖イサク聖堂(101.5m)などの歴史的建造物のほか、ソ連時代の1966年に建設されたサンクト・ペテルブルク・テレビ塔(高さ310m)くらいしかなかった。

このことからも、396mのオフタ・センターの大きさがわかるだろう。

さらに、ビルの高さだけでなく、場所も問題視された。

オフタ・センターは中心部からは約5キロ離れているものの、ネヴァ川を挟んで歴史地区に接している。

しかも、ロシア革命時に武装蜂起の作戦本部が設置された「スモーリヌイ」の対岸に位置していた。

象徴的な場所に隣接していたことが、反発をより助長したのである。

■ユネスコによる警告と高さ制限の強化

世界遺産登録を行ったユネスコは、高層ビル計画が歴史地区に隣接していることを懸念した。

そこで、2007年にバルボサ・ユネスコ事務局次長が、オフタ・センターの計画を進めるのであれば危機遺産リストへの登録も辞さないと警告した。

こうした動きを受け、2009年3月には市が建設予定地周辺に高さ100mの高さ制限をかけた。

この数値は、歴史地区のシンボルの一つである聖イサク大聖堂(高さ101.5m)の高さを超える建物を認めないことを意味する。

■一転、建築許可へ:プーチン、メドヴェージェフの庇護を受けた「国家プロジェクト」

ところが、同年9月、市の土地利用・建設委員会が、例外的に高さ403mまで認める決定を行い、翌10月にはマトビエンコ市長が建築を許可した。

当初の高さは396mであったことから、最終的に高さが17m上乗せされたことになる。

許可にあたって市側は、タワーは市中心部から離れた世界遺産区域外であるために景観上の影響は少なく、市の発展に必要な開発であると主張した。

なお、計画を許可したマトビエンコ市長はプーチンのKGB人脈に連なる人物である。

2008年に大統領に就任したドミートリー・メドヴェージェフも、プーチン同様にサンクト・ペテルブルク出身で、さらにプーチン大統領時代(一期目)にガスプロムの会長を務めたこともあった。

つまり、オフタ・センターはプーチン、メドベージェフといった強力な権力者の庇護のもとで推進されていた国家的プロジェクトだったのである。

■世論の反発とユネスコの勧告

しかし、世論を無視して高さ制限の緩和が強引に進められたことが一層の批判を呼ぶことになる。

まず、ロシアのアレクサンドル・アヴデーエフ文化相が、市長の建築許可を違法としたロシア文化財保護監督局の決定をサンクト・ペテルブルク検察に送付した。

同じ頃、建設に反対する市民約3000人が抗議デモを行い、世論調査でも建設反対が66%と全体の3分の2を占めた(賛成は20%)。

また、ユネスコもオフタ・センターの建設中断と代替地の検討を勧告する決議を行った。

■オフタ・センター開発地の移転決定、高さが463mへ

これらの反発を無視できなくなったのだろう。開発の動きに変化が生まれる。

2010年10月、当時のメドヴェージェフ大統領が「スモーリヌイの隣に建てる必要はあるのか」と開発場所に疑問を呈し、さらに、ユネスコとの協議が完了してから建設を開始すべきとの見解を示した。

この発言が影響したのか、12月には、マトビエンコ市長がオフタ・センターの建設地を移転させることでガスプロムと合意したと発表した。

この計画変更については、市民や国際社会との対話協調路線を志向するネドベージェフが大統領になったからこそ実現したとの見方がある一方、2012年の大統領選に向けたパフォーマンスと捉える意見も少なくなかった。

その後、建設予定地が、市西部のフィランド湾沿いに面したプリモルスカヤ地区ラフタ(14ha)に変更、2012年8月に市当局によって建設の許可が下ろされた(同年5月にプーチンが大統領に就任(二期目))。

移転地はサンクト・ペテルブルクの中心部から約9キロ離れているが、移転に併せて高さが60m上積みされて463mとなった。

この計画地の移転や高さの変更に関して議論が尽くされていないことへの批判も見られ、景観論争は未だくすぶったままとなっている。

このサンクト・ペテルブルクの景観論争は、世界遺産に登録されたからといって、国がその歴史的環境を守ってくれるとは限らないことを示している。

その意味で、このケースは、神宮外苑の風致地区における新国立競技場の建設問題と類似しているかもしれない。

<参考資料>

オフタセンター公式ホームページ  http://www.ohta-center.ru/en/ ※リンク切れ

服部倫卓(2011)「ガスプロムとペテルブルグの特殊な関係」『ロシアNIS調査月報56(4)』

毎日新聞東京朝刊2007年6月12日「古都に「ガスプロム」巨大タワー計画 揺れる世界遺産の街」

読売新聞2008年10月28日「[明日へ]世界遺産を守る(6)再開発と歴史の調和を」(東京夕刊)

朝日新聞 2009年10月12日 「400メートルのビル計画、世界遺産のロシア古都大揺れ」

共同通信 2009年10月10日「超高層ビル承認で論争、ロシア 世界遺産のサンクト市」

時事通信 2009年10月11日「高層ビル計画に抗議デモ=世界遺産が危機-サンクトペテルブルク」

東京新聞 2009年12月27日「 『プーチン・タワー』計画 揺れる古都 市民反発 市は強硬姿勢」

時事通信 2010年12月10日「摩天楼建設場所の変更決定=景観に懸念-サンクトペテルブルク」

読売新聞2010年12月14日「超高層ビル「やっぱりダメ」 サンクトペテルブルク市長」(東京朝刊)