日本で初めてつくられた超高層ビルは何か。おそらく多くの人が、1968(昭和43)年に竣工した霞が関ビル(高さ147m)を挙げるのではないか。
ところが、「日本初」を自認する超高層ビルは少なくとも三つ存在する。
完成順に、ホテル・ニューオータニ、ホテル・エンパイア、霞が関ビルである。いずれも1960年代に竣工した高層ビルだ。
各ビルの施工を担当したゼネコンが、それぞれ「日本初」を主張している。以下でその内容を確認し、どれが日本初の超高層ビルなのかを明らかにしたい。
■ホテル・ニューオータニ:戦後初の60m超ビル
ホテル・ニューオータニは、1964(昭和39)年9月に最高高さ72m(軒高61.24m)、17階建ての高層ビルとして完成した。

ホテル・ニューオータニ(出典:「近代建築」1964年10月号)
1964(昭和39)年の東京オリンピックに向けてつくられた主に外国人客のためのホテルで、当時としては珍しかった回転式展望レストラン(スカイラウンジ)が設置されたことでも知られる。
ホテル・ニューオータニ完成前まで、国内で最も高い高層ビルは、高さ65.45mの国会議事堂だった(1936年竣工。東京タワーや原町無線塔などの工作物を除くとビルとしては当時日本一)。ホテル・ニューオータニは、戦後初めて国会議事堂の高さを超えるビルとして誕生したわけだ。
ここで、施工を担当した大成建設による記述をいくつか見てみよう。
「なにしろ初めての超高層建築ですので、当社設計部・技術研究所・ホテル東京オータニ作業所の三者でチームを編成し、新しい工法や材料についての調査研究、各種実験を行ない、データの不備を補いつつ工法を決定し、工事を進めています」(『大成クォータリー(12)』1964年)
「わが国第1号の超高層建築、それも延102,500㎡に及ぶ巨大なホテルを、東京オリンピックに間に合わせるため、設計期間を含めてわずか17カ月で完成させた」(『大成クォータリー(15)』1965年)
はっきりと「初めての超高層建築」「わが国第1号」と謳われている。
「新しい工法」とは、柔構造を用いた高層建築という意味だが、柔構造こそ超高層ビルの実現に欠かせない技術だった。大成建設が日本初と表現したのも、この点を根拠とするものだ。
しかし、このビルを「超高層ビル」と表現するには違和感を持つ人がいるかもしれない。
というのも、超高層ビルといえば、マンハッタンのエンパイア・ステート・ビルやクライスラー・ビルのように、細長いタワー状の形を想像する人が多いと思われるからだ。
だが、ホテル・ニューオータニは3つの板状の建物をつないだ三ツ矢状のものであるため、空に伸びる垂直性は感じられない。
その点、垂直性を強調した超高層建築として誕生したビルがホテル・エンパイアだった。
■ホテル・エンパイア:法制度から見た「日本初」
1965(昭和40)年竣工のホテル・エンパイアは、当時「日本のディズニーランド」とも称された横浜ドリームランド内に設けられたホテルだ(現在、横浜薬科大学校舎)。

ホテル・エンパイア(出典:「近代建築」1965年6月号)
ホテル・エンパイアを直訳すれば「帝国ホテル」だが、もちろん日比谷の帝国ホテルとは関係がない(なお、帝国ホテルの英語表記はImperial Hotel)。この名前は、当時世界一の高層ビルだったエンパイア・ステート・ビルにあやかったのかもしれない。
仏塔のような多層塔の形をした高さの高層ビルで、その高さは21階建ての77m、相輪部分を含めると93mに及ぶ。
「21階」という高さは、施主であるドリーム観光の社長が決めた。ドリームランドの名前に込められていた「21世紀へ架ける夢」に由来する。
最高高さ93mのホテル・エンパイアは、ホテル・ニューオータニを20m以上上回るものの、完成は1年ほど遅い。それではなぜ日本初の超高層ビルなのか。ここで施工者である大林組の記述を見てみよう。
「ホテルエンパイアは、霞ガ関ビルにさきがけ建設省高層建築物構造審査会の審査を通過した日本における超高層建築第一号である。」(『大林組八十年史』p397)
「地下2階、地上21階、高さ77.7mという規模は、階数においても高さにおいても、現在の日本では最高であつて、構造設計については建設省の「高層建物【※原文ママ】構造審査会」の審査を通過して本格的な超高層建築第1号である」(「ホテルエンパイアの設計々画」『建築界14(6)』栄木一成(1965)p.74)
高層建築物構造審査会の審査を通過した超高層ビルとしては第1号と読み取れる。これはどういうことか。
まず、当時の法規制の状況を確認したい。日本では1919(大正8)年に制定された市街地建築物法以来、建築物の高さは住居地域で20m、商業地域等では31mに制限されていた。戦後、市街地建築物法が建築基準法に変わった後もこの規制は継承され、超高層ビルは厳しく制限されていた。
その後、1963(昭和38)年の建築基準法の改正で、一部エリアで絶対高さ制限が撤廃されることになった。容積地区制度が新設され、その区域内では絶対高さ制限の代わりに容積率制限で建築物の規模をコントロールすることになったのである。法律上、超高層ビルの建設が可能となった。
ところが、建築基準法上の建築構造の基準は従来の建物(高さ31m以下。最大でも45m程度まで)を前提としたままだった。超高層ビルの構造技術は進歩の途上にあり、構造の基準が確立されるまでには至っていなかったのである。
そこで建設省は、1964(昭和39)年に建築構造の専門家で構成される「高層建築物構造審査会」を設置。審査会が超高層ビルの構造設計を一件ずつ審査し、構造上問題ないと認めたものを建設大臣が認定するという手続きが設けられた。
ホテル・エンパイアは、この手続きに基づき建設された初めて超高層ビルだった。つまり、「法制度から見た超高層ビル」という条件では第1号と位置付けることができるだろう。
■霞が関ビル:日本初の100m超ビル
ホテル・エンパイアは垂直性を備えた塔状の高層ビルではあるものの、高さは100mに届かない。
日本で初めて100mを超える高層ビルが、1968(昭和43)年4月に竣工した霞が関ビルだった。高さは147m(塔屋を含めて156m)。147mはエジプトのギザにあるクフ王のピラミッドと同じだ。

霞が関ビル(出典:鹿島建設HP)
では、施主である三井不動産や施工を担った鹿島建設は、どのように「日本初」と表現しているのだろうか。
「霞が関ビルはここにようやく完成し、わが国超高層ビルのパイオニアとなった」(江戸英雄三井不動産社長日刊工業新聞1968年4月13日)
「超高層ビル第一号:三井不動産(株)の霞が関ビルは、霞が関官庁街に接する虎ノ門の一角、約一万六〇〇〇平方メートルの敷地に建設されたオフィスビルディングで、わが国初の本格的超高層建築である」(『鹿島建設百三十年史(下)』p.879)
ここでポイントになるのは「超高層ビルのパイオニア」「本格的超高層建築」という言葉だろう。では、どういった意味で「パイオニア」であり「本格的」なのだろうか。少なくとも次の三点が指摘できる。
一つ目は、取りも直さず100mの大台を超える日本で初めての超高層ビルであることである。しかも最高高さ156mは、ホテル・ニューオータニ(72m)の2倍強に及ぶ。
当時の東京は、31m規制が撤廃されたばかりということもあり、東京のスカイラインから突出して浮き出て見える建造物は、霞が関ビルや東京タワー等の鉄塔くらいのものだった(1)。霞が関ビルは東京の新たなランドマークとなったのである。
また、この年に日本は西ドイツを抜いてGNP世界2位に躍り出た。これまでの規制のくびきから解き放たれたかのように空に聳える霞が関ビルは、右肩上がりで経済成長を続ける日本のシンボルともなった。
二つ目は、超高層ビルの祖ともいえる建築構造学者、武藤清の存在である。東大教授を経て、鹿島建設副社長に迎え入れられていた武藤は、霞が関ビルの構造設計で中心的な役割を担った。鹿島建設が武藤を副社長として引き入れたのは、武藤抜きに100mを超える高層ビルは実現できないと考えていたからに他ならない。
先ほど、ホテル・ニューオータニが柔構造によって高さ72mのビルを実現させたと述べたが、超高層ビルの柔構造理論は、武藤清がいたからこそ確立できたのである。1959(昭和34)年、武藤を委員長とする「建築物の適正設計震度の研究委員会」が設置され、約3年後の1962(昭和37)年3月に「建築物の適正設計震度に関する研究:超高層建築への新しい試み」としてとりまとめられた(2)。この報告書では、地震国日本であっても、柔構造を用いることで高さ25階の超高層ビルも実現可能との見通しが示された。つまり、この委員会報告から日本の超高層ビルが生まれたといっても過言ではない。
三つ目は、霞が関ビルがその後の超高層ビルのプロトタイプとなった点である。構造、施工、材料、都市計画、プロジェクトの組織体制など、多様な観点から説明する必要があるが、ここでは都市計画の観点に絞って見てみたい。
前述のホテル・ニューオータニやホテル・エンパイアは、いずれも広大な敷地の中につくられた。つまり、敷地の外側に広がる市街地環境への影響をあまり意識する必要がなかった。だが、都市の中でこのようなゆとりのある敷地はそれほど多くない。いわば特殊な例であった。
これに対し霞が関ビルは、市街地内の敷地である。隣接敷地を含めた周辺環境への影響を無視して設計するわけにはいかない。
31m規制時代のビルは、高さが抑えられていた分、建蔽率が大きく、建物周りにオープン・スペースがほとんど取られていなかった。それゆえ、採光や通風の阻害、歩行・広場スペースの不足といった問題を抱えていた。その反省から、霞が関ビルでは超高層化する代わりに敷地面積の72%が空地となった。
こうしたタワー・イン・ザ・パーク型超高層ビルの原点は、ル・コルビュジエが提案した「300万人のための現代都市」(1922年)に遡ることができる。60階建ての超高層ビルを林立させて300万人を収容する高密都市を実現する一方、建蔽率をわずか5%(空地が95%)に抑えることで、都市に太陽と緑、きれいな空気をもたらすことができるというものであった。戦後、コルビュジエ的な高層都市を理想とする風潮が世界的に広がる中で、霞が関ビルが日本における嚆矢となったのである。
■日本初の超高層ビルとは?
最後に、日本初の超高層ビルは何かを整理してみよう。
ホテル・ニューオータニは、柔構造を用いた高層ビルであり、戦後初めて60mを超えるビルという点で日本初であった。
一方、ホテル・エンパイアは絶対高さ制限の撤廃に伴って設置された「高層建築物構造審査会」の審査を経て、大臣認定を受けたビルとして日本初の超高層ビルだった。
霞が関ビルは、なんといっても100mという大台を超えた初めてのビルだったこと、さらには、建物の周りに広い空地を設けたタワー・イン・ザ・パーク型超高層ビルを市街地内に建設し、その後の超高層ビルのプロトタイプとなった点で日本初ということができる。
以上からわかるように、日本初の超高層ビルかどうかは、「何をもって超高層ビル」とするか、その定義によるということに尽きる。1960年代の高度成長期、超高層ビルに対する社会的・経済的要請を背景に、それを実現する技術の進歩や法改正が、ホテル・ニューオータニやホテル・エンパイアとして結実し、霞が関ビルで本格的に開花したといえるだろう。
2018(平成30)年4月、霞が関ビルの完成から50年を迎えた。半世紀を経て、霞が関ビルの高さを上回る超高層ビルは、日本国内で194棟を数える(CTBUHデータベースをもとに算出)。
超高層ビルがつくってきた都市を振り返り、この50年を評価する時期に来ているのかもしれない。
表 三つの超高層ビルの比較(建物データは完成当時のもの)
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ホテル・ニューオータニ
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ホテル・エンパイア
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霞が関ビル
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竣工年月
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1964年8月
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1965年3月
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1968年4月
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施主
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大谷観光KK
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日本ドリーム観光株式会社 |
三井不動産株式会社 |
施工
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大成建設
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大林組
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鹿島建設,三井建設
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軒高(最高高さ)
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60.84m(72.09m)
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77.7m(93m)
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147m(156m)
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階数(地上)
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17階
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21階
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36階
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階数(地下)
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3階
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2階
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3階
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建築面積
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9,470㎡
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871㎡
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3,567㎡
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延床面積
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102,500㎡
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8,194㎡
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153,224㎡
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建物タイプ |
板状型 |
多層塔型 |
タワー型
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[注]
(1)1968(昭和43)年当時、東京における高さ100mを超える建造物としては、霞が関ビル、東京タワーのほかに、NHKの電波塔(紀尾井町、高さ178m)、日本テレビの電波塔(番町、高さ154m)、TBSの電波塔(赤坂、173m)があった。
(2)この研究は、国鉄の重要技術課題として昭和34年度から昭和36年度にかけて実施。もともとは、国鉄総裁の十河信二が1958(昭和33)年に東京駅丸の内駅舎(赤レンガ駅舎)を24階建て高層ビルに建て替える計画案を発表し、その実現可能性を検討するために国鉄が「建築物の適正設計震度の研究委員会」を設置した。1963(昭和38)年に十河信二が総裁を退任したことや、東海道新幹線の建設に注力していた国鉄に財政的な余裕がなかったことなどから、東京駅丸の内駅舎高層化計画は自然消滅した。
[参考文献]
大成建設編(1964)『大成クォータリー(12)』大成建設
大成建設編(1965)『大成クォータリー(12)』大成建設
大林組社史編集委員会編(1972)『大林組八十年史』大林組
白杉嘉明三(1968)『回顧70年:大林組とともに』大林組
栄木一成(1965)「ホテルエンパイアの設計々画」『建築界14(6)』理工図書
鹿島建設社史編纂委員会編(1971)『鹿島建設百三十年史(下)』 鹿島研究所出版会
霞が関ビル建設委員会監修(1968)『霞が関ビルディング』三井不動産